満州構想への一考 | 空気の意見 

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 日本を守る橋頭堡のための朝鮮半島を併合し、そのために満州国を橋頭堡として出現させ、
それで両者は日本にとって重要な植民地になってしまいハルハ河(モンゴルと満州との国境にある河)を
関東は重要な防衛線として考えて、対ソ戦などに備えようというのが、
だいたいの石原莞爾なんかの戦略であったと僕は考えています。
そのおかげで1931年に満州事変、1932年に満州国建国と関東軍が独断で突き進んでしまった。

 日本海での優位を維持するために日露戦争が起こったとみて、
そして、朝鮮半島を併合してからは、北支一帯の支配を巡って始まり、
旧日本軍は第二次大戦終戦までぐだぐだとした戦線の拡大をおこなうだけでした。

 石原達の対ソ連のための満州確保は本当に正しかったのでしょうか?
また石原が引退したあとでは東條達により、中国での戦線は肥大化してしまい、
戦術的には勝ち続けるも戦争には負けてしまう。
いわばロンメルのような戦術的勝利しか獲得できない、という失敗を関東軍は犯したように思われます。

わずか2年で満州構想は完全に頓挫した』

 1937年の盧溝橋事件からわずか2年後の1939年には関東軍が国境に設定した防衛線が崩壊し、
旧日本軍はソ連主張の国境線に押し返されてしまうという完全敗北に直面しました。
停戦できたのはソ連のポーランド侵攻という事情に救われたわけでしたが、
石原と違い関東軍自体は戦略の修正すらできずに終わりました。
これから、中国共産党とソ連、蒋介石とアメリカ、それぞれの思惑に対抗しなければいけなくなる。
ですがその前哨戦は善戦したもののすでに敗北から始まってしまったわけです。

 石原達の満州構想や戦略は完全に見通しが甘かった。
計画経済により第一次、第二次と爆発的に経済成長していたソ連を警戒したけれども、
彼らが企んだように満州は防波堤の役目すら成し得たか怪しい。
6年後、ソ連が1945年に、総兵力174万人、戦車等約5000両、飛行機5000機を投入しており、
陸、空、海から侵攻してきたのですが、正直、このような大戦力、
さらに蒋介石や共産党の兵力、と戦う事態を見通すことができていなかったでしょう。
もしも石原達が考えたように関東軍が精鋭を揃えて中国戦線をむやみに拡張せずにいたとしても
満州を防衛しきれたと考えるのは難しい。
 本格的な市街戦になれば満州はいずれにしろ広範囲に渡って独ソ戦の戦場になった町々のように
徹底的に壊滅したのは間違いないと思われるし、
そうなってしまえば軍が主張していた植民地経済も日本が投資したすべても消滅することになり、
ついでに満州国国境の防衛線も大幅に縮小され、
(実際にソ連が侵攻したときも満州の新京周辺でソ連軍を迎え撃った)
適当な緩衝地帯をつくって朝鮮半島を守ることで精一杯になったろうし、
朝鮮半島すら危うくなっただろう可能性が高い。

『大日本帝国イデオロギーの影響力は低く、共産主義の思想にもまったく勝てなかった』

 日本がロシアに勝利したことで多くの国が日本に学びに来た1900年初頭とは違い、
実現した共産主義の思想攻勢に、日本自体が影響を受ける始末であり、
ましてや神道という海外に広めもしなかった、そんな必要すらなかった代物が、
儒教、道教、キリスト教などより影響力も持てるはずもなかったのですから、
石原莞爾のいう天皇を拝した最終戦争論など思想面では馬鹿げた空想でしかなかった。
その論のなかできわめて鋭い洞察をみせながらも、
思想も戦略も現実の情勢すら読みきれないとんでもない空論になりさがり失敗した。
そもそも帝国主義で世界を指導しようなど時代遅れも甚だしくなっていたのに、
こういった天皇指導に寄りかかることでの軍国主義の自己正当化が垣間見えてしまうし、
「植民地、帝政」といった経済政策とイデオロギーにカビの生えたファシズムを注入するしかない、
これらを考えると当時の日本の軍人達の限界が露呈してしまったいいケースでしょう。
ヒトラーとスターリンが戦争をする前に経済政策で国内を整えたこととは対象的に、
戦時経済だとか植民地経済しか彼らには存在しなかった。
あとの一切は予算を軍隊にまわせと主張することしか頭にまったくない集団だったわけです。
 軍人思想がもっとも惨めなのは、天皇や神道を植民地を獲得しなければ普及できなかったことでしょう。
この事実だけでも彼らの思想の貧弱さ、あるいは海外に伝播するような影響力のなさが伺える。
大日本帝国のコミットを求めたり、海外の指導者が明治天皇を尊敬しても、
そんなものは確固たる思想の影響でもなんでもないですし。
そうならなかったこそ自分達で併合したり建国を画策したわけですから、
石原達の最終戦争思想のくだらなさがよくわかります。

『東條がでるまでもなく、石原達関東軍の構想も戦略も失敗していた』

 満州建国後7年で関東軍が第一次、第二次ともに敗北し防衛線から撤退した時点で
精鋭関東軍は同じような地上戦をしても恐らく勝利できないという見通しを立ててしまうことになりました。
前述したようにさらに6年後にはソ連軍に蹂躙されたわけであり、
この間に日ソお互いともに軍事技術が進歩したのですが、
ソ連の進歩と機械化には到底かなわない差ができていました。
 満州、千島列島、南樺太。
満州はともかく海軍が陸軍の大陸防衛と離島防衛に駆り出されなければ少なくとも
ソ連との海戦はまだ朝鮮戦争頃のジェット戦闘機時代までなら持ちこたえていたかもしれない。

 その後の紆余曲折はまた別の問題なのかもしれないけれども、
石原の無用な満州構想が中国方面での戦争と日中戦線拡大を招き、
加えてアメリカの植民地放棄要求やABCD包囲網の遠因となり、
結果的に、植民地の保護と戦争遂行のために、アメリカとの戦争を陸軍に決断させてしまった。

 太平洋戦争の際の離島要塞化などで不敗の態勢といった話も、
硫黄島と沖縄での戦いを眺めれば不可能だ。
要塞化も持ち込んだ野砲などの砲門も、あるいは特攻や艦船や地上戦も、
兵力と飛び交った火力などを参考にすれば、サイパンに兵員と兵器を輸送したところで不敗は実現しない。
(もっともそんな輸送能力をサイパンに集中させる余裕もなかっただろうけど)
 石原が指導していれば太平洋戦争は起こらなかったかもしれないが、
ハルノート通りに中国(満州)から即時撤兵するのなら満州事変や満州建国といった構想など
最初から不必要だったと認めるようなものでしょう。

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