mumurブログ
さんでも東氏の評論に触れ、
『 東君は「奇異な発言や行動」そのものについては異論はないようだけど、
まさにここが問題になってるのだよ。「韓国人ってこんなやつらだったのか・・・」という素直な感情。
これは韓国人だけの問題ではなく、日本のマスコミの報道体質に関する問題でもある。
朝日新聞を代表とする日本のマスコミは、こういった韓国人の実態について「広く知れ渡るとマズイ」と
自覚しているからこそ隠蔽しているわけだ。
マスコミが嫌韓流の「ナショナリスティック」な内容に異議を唱えるなら、まず、「韓流ブーム」など
という作られたイメージだけではなく、韓国の実態をありのままに報道することを行うべきだ。』
(murmurブログより引用)
東氏の評論は先日よりネットで随分と取り上げられていた。その概ねは大抵非難交じりの声だ。
しかしナショナリスト、嫌韓厨と罵られかねない僕の手元には東 浩紀氏の著作
「動物化するポストモダン」がある。もちろん新品を660円(税別)を払って購入したものだ。
同書で東氏は縦横に論じているが、ここでは単に動物化にだけ焦点を絞って話をする。
動物化とは
現代思想は二元論の枠組み自体を疑ってきた。
主体、客体。人間性、動物性といった区別やそれ自体を行なう人間や精神を疑ってきたはず。
東氏の評論を一部だけ抜き出して批判することに嫌悪感を持たれる方も多いだろうが、
どうか若気の至りとして許していただきたい。
結局、東氏は人間か動物か、という二元論の住人ではないだろうか?
「ポストモダンでは超越性の観念が凋落するとして、ではそこで人間性はどうなってしまうのか」
という疑問が同書第二章の問いだ。
しかし構造やデータベースなどさまざまな概念や論理を扱いながら人間性について答えようとしている。
もちろん「人間性といった問題に答えようとしないことこそ・・・・・・」と反論されてしまうかもしれない。
あえて「人間性」といった問題に果敢に挑みかかる哲学者東氏は未曾有の勇気を持ちえた方だろう。
動物化だとかスノビズム(すでにデータベース消費に取って代わられたという)といった考察。
近代の人間
↓
物語的動物
(人間固有の「生きる意味」への渇望を、同じように人間固有な社交性を通して満たすことができた)
小さな物語=(相似的に結ばれる)=大きな物語
「ポストモダン」=動物の時代
↓
(ポストモダンの主体の二層化)
↓ ↓
小さな物語=|=大きな非物語
欲求 ↑ | ↑ 欲望
シミュラークル=|=データベース
(シミュラークルの水準)↓ ↓ | ↓ ↓(データベースの水準)
ドラマへの欲望 ↓ | ↓ システムへの欲求
↓ | ↓
動物化=|= 擬似的で形骸化した人間性
(人間固有の「生きる意味」への渇望を社交性を通しては満たせない)
意味の動物性への還元=(人間性の解離的共存)=人間性の無意味化
データベース的動物←(ポストモダンの新たな人間像)
(世界全体はだれの生にも意味を与えることなく漂っている)
↓
ポストモダンの人間(動物化するポストモダン)
東氏の話はこういった流れだと思うが、もしも誤りがあれば申し訳なく思う、先に謝罪しておきます。
現代思想は人間や動物に主体、客体を認識しようとする「精神」自体に疑いの目を向けたという。
ここで僕がいえるのは東氏はコジューブの定義などを引き継ぎ発展させた現代の後継者である、
ということだけだ。
そこに複雑な構造が存在しようとも東氏の認識は徹底的な二元論と弁証法の
世界のように感じてしまうのはなぜだろうか?
仮にそれらの認識に限界があったとしたならば、まさしく東氏がコジューブなどの正統的な後継者である、
ということの名誉ある証明になるのかもしれない。
しかし、それは二元論から発祥した認識世界におさまってしまうしかない、ともいえるのかもしれない。