吉田松陰(1830~1859)享年29歳
思想家、教育者、兵学者。
クラウゼヴィッツの「戦争論」(1832~34)
アメリカ南北戦争(1861~1865)
普墺戦争(1866)
普仏戦争(1870)(山県有朋、大山巌が出張して見ていた)
岩倉使節団外遊(1871~1873)
(「条約は結び損い金は捨て
世間へ大使何と岩倉」
とか狂歌で歌われたそうですが現在からみたらビスマルクに会えたのですから収穫は大きかった。
僕が、もし、ビスマルクに会えるんだったら「ユパさま~」とか言って抱きつきますよ)
明治21年(1888)にドイツにて森鴎外が早川怡与造大尉に週二回ぐらい「戦争論」を購読。
この大尉は後の田村怡与造中将だったそうな。
(1904年に日露戦争)
1880年代にフランス陸軍がクラウゼヴィッツを発見したそうな
1873年にイギリスではすでに英訳が出たとか。
ああ、この人や多くの方々が先んじて海外に勉学に行けていたらなぁ・・・・・。
歴史は残酷ですね。
兵制や戦争哲学やら軍事教育やら武器革新・・・
1853~54年に国をでて海外で学べていたら・・・・
これをいうと「鎖国しなけりゃよかった」までいきそうなのでアレですが。
(仮想・松蔭世界を放浪譚)
・首尾よくアメリカの軍艦で渡米、南北戦争をみる
・欧州に渡り普墺戦争を見るプロイセンに瞠目、プロイセンで兵学を学ぶ
・普仏戦争でモルトケ、ビスマルクの手腕をみると同時に軍事の暴走の危険性を知る
・岩倉使節団がプロイセンを訪問したところ松蔭をみつけ伊藤博文びっくり
・その時森鴎外の舞姫をある意味越えて、すでにプロイセン女性と結婚3人の子をもうけ所帯をもっていた
・1873年岩倉使節団とともに帰国、軍の近代化に尽くす
・充分後継者をつくりプロイセンに帰国
・1890年モルトケ90歳の誕生日に立会い松蔭もモルトケに祝辞を述べ語り合う
・松蔭、日露戦争の終結をみて静かに喜び、プロイセンの荘園にて余生をおくる
- 完 -