映画とは時間をコントロールするメディアだ。
パッケージ商品としての2時間前後の時間的制約を元に起承転結を設け、物語を提供する。
物理的な時間という尺度は共通のはずなのに、実尺以上に長く感じる作品もあれば、
長尺なのに走馬灯のように過ぎ去りあっという間に感じることもある。
この体感時間の制御こそが演出の根幹をなすものである。
地獄の責め苦の様な90分のゴミ映画もあれば、3時間越えなのに時間を超越する作品もある。
以前に「ヘイトフル・エイト」でも主張した長尺傑作映画におけるグルーヴ論。
音楽に喩えれば、基本となるリズムセクションの腕次第によって、体感時間すらを超越できる。
では映画におけるリズムセクションとは?
映画の最初単位の断片となるカットの編集手法となる。
色彩やカメラポジショニングといったアングルや移動、1カットの長さなどを編集段階で
巧みにコントロールすることが、観客が物語そのものへ安心して身を任せることができる流れ、
すなわちグルーヴを生み出すことになる。
前の公開時の3時間版を多分観ているはず。ただ残念ながら全く記憶からは消え去っている。
今回は4時間近くのロングバージョンだ。
途中休憩なしで通常の映画2本分なので、些か不安だったのは否めない。
結果は4時間の時間を全く感じさせない、
グルーヴ感に満ちた、あっという間に過ぎ去る至福のひと時だった。
60年代初頭の台北、高校生とその家族の日々を描いた群像劇である。
少年、少女の抱える未来への期待感と現実の閉塞感は誰もが一度は経験した普遍的な想いだ。
「殺人事件」とタイトルに謳われているが、決して刺激的なアッパーな物語ではない。
この場所のこの時代の空気感を体験したことない異国の門外漢でもリアルに生々しく描き、
まるでそれは過ぎ去った記憶を懐古するかのような錯覚さえ伴う。

それを醸し出すのが王道のグルーヴ感。
奇を衒った手法は一切ない。
カメラは固定で長回しを基本とし、移動があってもパンはティルト、レールでのゆるやかな引きなどのみ。
極端なアップや短い切り替えし、クレーン手持ちでの高速移動など
如何にも映画的なトリッキーなカメラワークは基本的に使用していない。
エドワード・ヤン監督は元々電気工学の学位を持ちエンジニア出身であり、
その作風も「建築的」と称されていたが、物語全体を思い出し、納得した。
的確なアングルにカメラを据え、必要に応じて動かしながら、人物と事象を生々しく記録する。
カメラ(あるいは操る撮影者)自体の主張は希薄で、あくまでも記録することに徹した極めて合理的な
ショットで、更に編集的な外連味のを配し同じく全く無駄のないた的確な繋ぎで時間的に連続させる。
あくまでも基本となる映画言語のベースに忠実なだけだか、
一見簡単なようで原理原則に何処までも忠実で、かつ効果的であることは途轍もない技術を要する。
手法はミニマムだけど、マキシマムな効果を生む。
これがグルーヴ感となり、4時間という物理時間をあっという間に過ぎ去る体感時間へと変える。
劇中で楽曲が使用され、英題とななっている「A Brighter Summer Days」のように過ぎ去っていく。


偏愛度合★★★★

何かのテーマで縛り、いくつかの短編を並べたオムニバス形式の映画が好きなのだ。
ひと昔の前のヨーロッパ映画などでよくあったが、
短編なので一発勝負での監督の個性そのものが現れて面白い。
ザ・ブルーハーツは世代的には重なるのだろうけど、全く思い入れのないバンド。
当然使用されている楽曲も知らない。
だからバンドや曲の持つ固定イメージとのマッチングや解釈については何もわからない。
短編映画としての出来具合を楽しむだけだ。
しかし6作品、都合2時間40分は長い。正直言ってアタリハズレの振幅も大きい。
作品間のリンクや共鳴はなく、ザ・ブルーハーツという楽曲の共通があるのみ。
テーマやジャンル、タッチも様々で決して退屈はしないが、
個々の尺、あるいは作品を絞るなど、全体のスリム化は必要かもしれない。
福島原発というタブーを扱った李相日監督「1001のバイオリン」
台詞なしで全て映像のみで語る工藤伸一監督「ジョウネツノバラ」が抜きんでているかな。
後の4本はほどほどの出来具合。


偏愛度合★★★

まずはお断り。
当方50代前半の紛れもないオッサン。
いくら男性上位なマチズモを毛嫌いし、マウンティングには興味なく、また男性ホルモンが少ない
(体毛や髭が薄い)としても、所詮オッサンという枠組みからは逃れられない。
この手の映画について書こうとすれば、女性の容姿やスタイルといった外面性、
内面的な性格や社交性などのどうしても男視線での観察という呪縛からは逃れられない。
異性からは不快に感じることもあろうが、そこをポリティカル・コレクトネスに清き正しく美しくに
従えば、確かに角も立たないだろうが、正直に何も語ることが出来ないとうジレンマに陥る。
もし不愉快に感じたら、さっさと離脱してください。

さて本題、というより結論。
エイミー・シューマーが駄目だ。
役柄への共感やあるいはコメディモチーフとしての笑いやエールどころか、
ずっと生理的な拒否感が続き、関西弁で言う「さぶいぼ」が出るくらいに気色悪いのだ。
SNL出身の人気コメディアンらしく、一部実体験をベースにしながらも今作の脚本も兼ねている。
洋の東西を問わず、妙齢の女性のこじらせ物語って流行りなのだろうか?
ある種自虐的ともいえる痛い展開をあからさまに披露している。
そこでちょっと問題となるのがこじらせた女性を演じる女優問題。
選ばれた美貌を有する女優がわざわざブスメイクして、野暮ったい服装をしてブス演技に挑戦する。
世間的には勝ち組がわざわざリア充ごっこならぬ、不幸ごっこをもっともらしく演じる姿のを見て、
果たして同性は共感するのだろうか?常々違和感を感じていて、ずっと謎だった。
でも今作は更にツイストした違和感がある。
一夫一妻制を嫌悪する浮気性の父の歪んだ教えを守り、
「電話番号を教えない」「お泊りしない」と男性とひと晩限りの関係を数多に繰り返してきた女性だ。
さぶいぼ者としては、、どうしてもそこにリアリティが感じられない。

果たして彼女がそんなにも「電話番号を知りたい」「お泊りしたい」女性であり、
願わくはステディな関係を維持していきたいと思う女性なのだろうか?
アメリカ人と日本人の趣味の違いはあれども、(あくまでも役柄上だけど)この容姿と
スタイル、ファション、性格、ファションとどれをみても疑問詞ばかりが浮かぶ。
絶対御免だ。
まぁ百歩譲って「それはキミの好みの問題やろ」とい流しても、
もっと根深いのは自作自演という自意識の垂れ流しだ。
この手の下ネタアメリカンおバカコメディは90分から長くても100分程度の尺であって欲しい。
堂々と2時間越えで延々とグダグダと痴話劇を繰り返す。
余りにも薄っぺらい苦悩と葛藤が続く。自作脚本故か、一切引き算のない、執拗さだ。
垂れ流される自意識、ましてやその人が苦手なタイプであればもはや拷問だ。
脚本を担当するなら、いっそ自分自身は脇に徹して、
例えば妹役のブリー・ラーソン(特に好きではないが、ずっと華やかさはあり、旬な女優のひとり)を
ヒロインにするなど、どのみちマイワールド全開なのだから、
少しだけでも客観的になって、ぐちゃぐちゃの自意識の垂れ流しを押えれば印象は変わった気がする。
ちなみに女性だけなく、イイ男も皆無。相手役のジャド・アパトーもちょと気持ち悪い系。
映えるのはティル・スウィントンくらいか。
たかが映画だけど、生理的な壁は高い。どうしても駄目なものは駄目なのだ。

偏愛度合★

原作も監督も未体験で、予告編だけで全く前知識なしで鑑賞。
舞台が京都市内ということが大きな要因だけど、
然程期待はしていなかっが、これが結構楽しめたのだ。
同じく京都で大学時代を過ごした身とだけど、劇中の様な荒唐無稽な物語の共有は不可能だけど、
背景に流れる町並みには覚えがあり、やはり懐かしさを伴う。
「フランソワ」「餃子の王将」「進々堂」などという実在の看板が何気に描かれるのだ。
勿論エンドクレジットには協賛として賛辞されている。

しかし、そもそも左岸右岸問題がある。
鴨川を挟んで西側(右岸)と東側(左岸)には大きな溝、いやこれは結界とも言うべき国境があるのだ。
片や我が国最高峰の国立大学のひとつであり、片や私立キリスト教義のお坊ちゃん系大学。
目立って仲が悪いわけではないが、後者からは一方的にコンプレックスがあり、鴨川を挟み、
中立地帯である出町柳界隈から以東は敵地となり、常にアウェイ感が伴う。
立入禁止ではないが、侵入には多少の緊張感が伴う。
パリの左岸右岸と似ているかも知れない。
右岸には凱旋門にルーブル美術館、シャンゼリゼと観光名所が並ぶが、
左岸には、エッフェル塔、オルセー美術館に知の街とも言うべきエコ―ルドパリ発祥のモンパルナスだ。
聖地カフェ・ド・フロールこそ進々堂ではないのか?この店は劇中でも大きな意味を持つ。
個人的には右岸に属し、別の意味で聖地である御所はお馴染みでも、
伝統的な進々堂へ実際に足を踏み入れたのは極々近年だ。
当時は喫茶店で優雅に珈琲を楽しむはした金はなく、
それ以上に敵地でゆったりとくつろげるはずがないのだ。

おっと、大きく本題から脱線してしまった。
決して左岸出身の作家だからと敬遠していたわけではないが、映画の後で原作読了という流れ。
比較すると圧倒的に映画の勝利だ。
確かに原作の明治文豪の文体を意図的に模したような口語的なこねくり回した言い回しと、
スラップスティックなナンセンス感の共存は斬新な手ごたえだった。
でも一度映像を通してしまうと、全てはアニメーションのキャラクターデザインでアテ読みとなり、
本来の文体から湧き出る想像力が全て先日脳裏に刻み込まれた映像へと自動変換されてしまうのだ。
それくらい映像のインパクトとパワーが満ち溢れていた。

中村佑介のキャラクターデザインは見慣れた作風のママであり、予定調和だけど、
監督湯浅政明の作風なのか、それをアニメーションとして息を吹き込む、動かす技には驚いた。
徹底して簡略化されたグラフィカルな線画にカトゥーンアニメのように誇張された動きが素晴らしい。
幼少期に繰り返して観た「トムとジェリー」などに通じる、
リアリティ無視の誇張や肉体変形や動きの緩急が記憶の中から蘇って来た。
まるで劇中で乙女が思い出した「ラ・タ・タ・タム」の記憶のようだ。
その背景画となる京都の風景もまた記憶を呼び起こす。
昨今は京都へ出向く度に、街並や店が変わり、
ナショナルチェーンや他所さん資本の京都偽装店ばかりが並び、興ざめが激しいが、
劇中の風景は記憶に近い疑似感を残す。
もちろん本物ではないが、記憶というフィルターを通して、
自己都合で美化したり、事実歪曲した虚像だ。
これがあの町で学生時代を過ごした者にとっては何とも心地よいのだ。
原作は4章立てで、春から夏、秋、冬へと四季を巡る物語なのだが、それをひとつの流れで繋いで、
まるで一晩で起こった夢のごときに再構成する脚本もまた素晴らしい。
星野源の配役は今一番旬の役者故の客寄せ的な側面は否めないが、
実は乙女役の花澤香菜の声が心地良い。
彼女がいったい誰かのか、ジャンル門外漢には不明だけど、
ひとり際立っていて可憐で涼しげでいて、芯が通った強さというキャラクターそのままの印象を残す。

偏愛度合★★★★

人は物語に出逢う。
力のある物語は人との出逢いによって再編され、文字から映像などメディアや形状を変え、
物語自体を拡張させ、やがて時代を超える存在となる。
問題となるのは何処で物語と出逢うかということだ。
チャールズ・ディケンズの「大いなる遺産」を例にとると、
この映画との出逢いが最初だった。


心の底から魅せられ、逆に戻って原作を手に取った。
正直なところ、文学史における偉大さは理解できても、こちらには然程惹かれなかった。
映像が先行したため、単なる古臭い古典でしかなかった。
自分にとって「攻殻機動隊」の場合、押井守版が出逢いだった。
同様に原作コミックに戻っても、絵柄が馴染まずに映画ほどにはしっくりこなかった。
「あれは俺のというより、士郎さんの作品だからね」と押井監督自身がインタビューで
答えているくらいだから、何処かで原作に出逢い、
それを取り込み自らの血肉と化し、作品として再構築したのだろう。
その後の何度となくクリエイターを変え、再起動されて、拡張してきたシリーズだが、
原点にして基準となるのが最初の劇場版なのだ。
それ故に新しい作品と出逢っても常に比較は避けられない。
今回の監督、脚本家を含め、世界のクリエイターたちが何処かでこの物語と出逢ったのだろう。
ウォシャウスキー兄弟(姉妹)もまた同様だろうが、
誰が見てもあからさまな影響下ながら、全くの別の物語「マトリックス」として再構築した。
でも今作の場合は、そのまま実写映画という直球勝負だ。
世界中に根強い支持層がいるだけに、ある意味分の悪い勝負だろう。
その結果同名のオリジナルとそのシリーズへの深い愛情が十分に感じられる。
でも一方的にディスって、ボロクソにけなしきれない難儀な代物なのだ。
オリジナルとは桁違いの金と手間暇をかけて、実写化しているが、所詮は模造品の域に留まっている。
なまじオタク監督だけに愛情をたっぷりと注ぎ込み、実写映像による緻密だけど、
些か表層的な映像再現と自分の好きな断片のツギハギ感の居心地が悪い。
「あ、このシーンの元ネタはアレなのね」と感じる程度にはシリーズにどっぷりなので、より所在がない。
そのままでなければならないというオリジナルの物語原理主義ではないが、
中途半端な流用や改変の自由度は時として凶とでる。
もっとも再映画化にあたりオリジナルの改変という自由裁量を捨て、
撮影やカット割りすらそのまま流用した「椿三十郎」というある意味実験的な極端な例もあるが。
そもそも自分が押井版「攻殻機動隊」2作の何処に惹かれたのによる部分が大きい。
本物と偽物、精神と肉体の対比構造に潜む宗教や実存的な哲学、認識論などの衒学的な主題を
原作から引き継ぎながらも、原作に付帯する再構築する物語に不要なキャラクターやキャラクター特性、
コメディエンスな間合いや余白などを徹底してそぎ落とし、
アニメ―ション(動画)としてのリアルな表現へと再構築した改変具合が快感だった。
前作「パトレイバー」から、その後も引き継がれる、押井作品としての根幹がツボなのだ。
再構築の更なる再構築には、当然ながらハリウッド的な解釈と物語構造が加わる。
SFXを駆使した緻密な映像再現とは裏腹の哲学性のそぎ落とし、すなわち物語の簡素化、
更には敵対勢力と公安9課の勧善懲悪的な明確な対立構造と起承転結の導入は改悪とできる。
最後に明らかになる改変されたオリジナルのラスボス的な存在には思わず脱力する。
スカーレット・ヨハンソンが演じる少佐(草薙素子)はそれなりに気張っていたが、
それ以外のキャラクター描写が薄すぎる。
特にバトーと素子の関係性。
押井版「パトレイバー」における後藤と南雲という両隊長の男女の関係性にも通じる、
強い女と脇で見守る不器用な男というモチーフが一切ない。
例えばコンクリートの川でのバトルは細部まで再現していても、
その後にバトーが素子に上着をかけるシーンはなかったり、
ボートでのダイブシーンでのふたりのさりげない会話など、どちらも男女の関係性を示す、
間接的だけど重要な要素がバッサリ切られている。
また唐突にサイトーが出てきて狙撃しても「え???」という感じだ。
結局、押井版が好き過ぎる故に、何をしても粗探しとなり、単なる文句言いとなってしまうのだ。
文句を言いながらも、同時に同じものを愛する同輩への賛同もある。

偏愛度合★★★

実話を元にした物語と聞くとどうも身構えてしまう。正直ちょっと苦手なのだ。
昨今、人の持つ想像力を源とした虚構としての物語よりも現実世界が先行している時代となった。
時として、現実の事件がホラーや戦争映画よりも凄惨であったり、
わずか十数年前なら想像もできなかった、映像テクノロジーがごく身近に安価で存在して、
映画の独壇場だった領域を簡易に置換する。
Google Earthの存在はもちろん、
こんな予想外の活用方法なんて、どの国の脚本家も思いつかなかったのだ。
そんな先行する現実を映画の物語が追う場合、重要となるのは映画ならではの語り口だ。
結局映画は語り口こそが全てだ。
結論を先に言えば、そこにこの映画の問題点がある。

個人的にはこのニュースを知らなかったが、
でも事実が先行しているので物語の結論が明らかだ。
だから如何に結論にたどり着くかという道のりにこそ語り口の手腕がある。
結論から俯瞰した物語全体像の形成と時系列の設定こそが語り口だ。
「LION」では主人公の幼少期から成人まで、中抜きはあっても基本的に時間を順序通りに追う。
冒頭から描かれるインドの風景は見事。
延々と続く草原を歩く少年を空から俯瞰するショット、繁華街の人の活気、
夜の駅舎などに酔いながらも、そこで迷子となった少年の不安感をひしひしとリアルに感じられる。
でもその後オーストラリアの夫婦の養子となり、
渡豪してからは何故か物語は映像の持つ力が失速し始める。
確かに配された役者は文句なし。
デヴ・パテルもイイ男だし、母役のニコール・キッドマン、恋人役のルーニー・マーラも手堅い。
でも一向に乗り切れない。
執拗に繰り返される記憶のカットバック(フラシュバック)がくどいのだ。
ぶっちゃけ演出がありきたりで臭いのだ。
主人公も恵まれた現在の環境への違和感といった
ありきたりで薄っぺらいの苦悩感を形通りに描いている風にしか思えない。
それは予定調和の結論の感動へと観客を導く、あからさまであざとい演出に陥っている。
現実(実話)を馬鹿正直に順序通りに語っているだけなのだ。
Google Earthの思いもよらない使い方も活かされていない。
映画ならではの、加味された表現方法や創造力はない。
中盤以降はダラダラと失速するばかりだ。
更に文字通りの蛇足と言える、モデルとなった本人たちの写真や映像がクレジットに流れると
「ケッ!」とあきれ果てて、冷めるしかない。
個人的には些か偏屈かもしれないが、百歩譲って実話を元にした話はいいのだが、
この最後の本人登場だけはどうしても許せない。
とって付けた実話感がただひたすらに鬱陶しいだけだ。

偏愛度合★★★

やはり主題や作風と文体は一致すべきだ。

もはや常連というか、カンヌ映画祭好みの監督ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ。
社会問題を反映したドキュメンタリー映画やそれに準じる劇作品をつくり続けている。
確かに社会全般へ向けるまなざしは、問題意識が高いが、
その映画的な手法はドキュメンタリー的なものであり、より洗練されたテクニカルなものではなく、
いい意味での外連味には欠け、劇映画であっても物語の持つファンタジー性は薄い。
現実逃避としての映画を求める観客にとっては、どこか説教臭いというか、
やや監督のプロパガンダのみが先行している感じが否めない。
正直言えば、退屈さを感じることが多い。

今回、その監督がサスペンスという新機軸に挑戦してきたのだ。
ここで生じたのが、冒頭で示した、主題や作風と文体(映画的手法)の不一致。
いつも通りの変わらぬ演出なのに、やや娯楽寄りのサスペンスという作風がかみ合っていないのだ。
基本はヒロインである若い女医が物語の視点となり、自らの過失を悔い、真相を求めるという
「SEEK  AND FIND」な探偵ものの物語形式である。
でもカメラは固定で長回しを基本、パンや手持ち移動程度まででテクニカルな移動撮影はない。
インサートアップショットや切り返しなど編集での説明補足も、劇音楽もなしといういつもの手法だ。
通常であれば観客が共感を抱くべき主人公の内面や背景描写が薄く、割と淡々と行動を追うのみで、
更に致命的なのは、最後に提示される真相自体のリアリスティックで
やはり意識高い系な落としどころにはどうにも盛り上がりようがないのだ。
サスペンスの外連味を期待する観客がお門違いと言えばその通りで全く否定できないが、
何よりもこの中途半端さに居心地が悪いのだ。
結局門外漢な作風への挑戦が(好き嫌いは別にして)監督らしさを損なっているようだ。

偏愛度合★★★

いきなり不謹慎な言い回しかも知れないが、7名の幼馴染とその配偶者のスマホに隠された秘密が
同時多発テロ的に炎上するというありえないブラックなシチュエーションコメディ。
僅か96分の物語で、あり得ない偶然とシンクロニシティに突っ込むのは野暮だろうけど、
矢継ぎ早に暴露される秘密はやや出来過ぎな感じは否めない。
多分「おとなの事情」によって、脛に傷を持ってたり、
何かしら秘密を有する人によってはこの状況は他人事ではいられないのかもしれない。
でも秘密からは遠く、思ったことが同時に口から出てくる性分で、不携帯電話と揶揄されるくらい、
充電器に仕込みぱなしで、活用しない身としては土俵の外から興味津々で眺めるしかない。
友人同士の会食が、月食に月を一緒に見るという設定が肝だろう。
古くから月の満ち欠けが人の精神や健康状態に影響を及ぼすことが伝えれている。
精神な不安定な状態、例えば理由もなくイライラしやすくなったり、何もかも面倒になリ、
捨て去りたくなったりする例もあるようだ。
それに輪をかけた、ワインの悪酔いの力か、場の座興か、
王様ゲームのようにそえぞれの携帯を披露しあうという無謀なゲームへと突き進む7人。
突けば、出てくる出てくる埃だらけの悪夢のようなゲームだ。
言い訳だらけで、嘘が更なる嘘を生み、裏駆け引きとインチキプレゼンテーションがくりひろげられる。
多少の皆が集まるまでのイントロを経て、あとはその場の会話だけで、
個々の人物のキャラクターと状況説明を巧みに舞台劇のように90分の尺でまとめる脚本は見事だ。
結局暴露された数々の秘密。
国家機密レベルではなく、身の回りの人を見渡せばいくらrでもあり得そうなレベルだ。
だからリアリティを伴い、痛く響く。
最後には大炎上を起こして、人生崩壊とも言うべき一大カタストロフィーとが展開されるかと思えば、
何となく元のさやに納まるのもまた「おとなの事情」だ。
しかしスマホは単なる通話の為の通信機器ではなく、メールやLINEに画像、SMSへのリンクと
既にその個人の外部記憶端子と化している。
閉ざされている限りにおいては一見ブラックボックスであるけど、一旦開かれ暴かれれば、
全ての個人情報が垂れ流しになる誠に恐ろしい産物なのね。
その意味では現代のホラー映画だ。


偏愛度合★★★

20年ぶりの続編は意図せずして、時間の流れとその変化に関する考察となった。
リチャード・リンクレイターが「ビフォー」シリーズ三部作や「6才のボクが、大人になるまで。」
で繰り返しているのと同様に、現実世界の時間の流れを物語内にそのまま持ち込む手法だ。
区切りの良い20年後を狙っていたというより、
続編企画が監督、脚本、キャストの偶然の邂逅によって、このタイミングで生まれた産物だろう。
20年の時間が経過しているという当たり前の事実が大きくのしかかる。
観客の前作「トレインスポッティング」の体験によって印象が大きく異なる作品だ。
前作を未体験、あるいはDVDなどで後日体験した人と劇場リアルタイム世代には大きな溝がある。
前者にとっては、時間経過によって老けたオッサンたちが再び足掻いている無様な物語に
しか映らないかもしれないが、後者にとってはそれはもっと大きな意味を持つ。
自分は20年前にリアルタイムで体験した口である。
生涯偏愛級の作品というわけではないが、20年間の間に何度となく観直している。
時間の流れは残酷だ。
例えば当時20歳の若者であったとしても、現在は40歳になっているのだ。
特に男子でも、男性でも呼称はどちらでもいいが「男」という生き物が、
生涯逃れられい変わらないバカさ加減をありありと見せつけてくれた。これは相当痛い。
主人たちを笑っていられない。
まずは目に見える肉体変化だ。
頭髪が薄くなり、白髪が増え、下腹を中心として体型がゆるむ。確実にオッサン化している。
次は目に見える変化とは裏腹に全く変わらないいい年こいても、子供じみたバカさ加減。
相も変わらず居場所を見つかられずにフラフラと自意識の中を徘徊して、
社会的には明らかに負け組となっている。
これを同じ役者が同じ役柄を20年後に演じているのだ。
どちらも男性観客には全く笑えない、鏡像となるのだ。あゝこれは痛すぎるよ。
ちなみに自分は当時31歳で現在51歳。大体主人公たちとも世代が被る。
正直言って映画としての物語なんかはどうでもよい。
物語としてのファンタジーよりも、リアリティが先立ってしまうのだ。
女性の現実的で地に足の着いた大人っぷりとは対照的なのだ。
例えば前作で個人的にはお気に入りのショートカットの女学生ダイアンは
現在弁護士として成功を収めているなど、女性主人公の徹底してリアリストぶりには唸る。
だから時間の流れとその変化への男女間の対応能力に関する考察なのだ。
これは男性と女性の間に流れる決して埋まらぬ差異でもある。
開き直って言えば、男は死ぬまでガキのままなのだ。反論したくても、認めざる得ない。
痛いところをどこまでも突いてくる作品だ。
つきましては、どうかこ痛さが自分だけではないことを祈るばかり。

偏愛度合★★★


元ネタはイリヤ・ナイシュラーのパンクバンドのMVらしい。


一発ネタとして、3分間のMVならインパクト抜群だけど、
劇映画として成立させるにはこのアイディアを30倍に引き伸ばさなくてはならない。
昔から全編一人称映画としてはチャンドラー「湖中の女」をロバート・モンゴメリーが全編
フィリップ・マーロウの視点で描いたという作品が有名だけど、未だに実物は観たことはない。
手法のみが語られ、肝心の出来具合は怪しいみたいだけど。
本来映画というメディアは、常に撮影対象と撮影者がいるという客観性が基本。
神なる視点とも言うべき、現実ではありえない不在の撮影者という第三者の視点を設けて、
それを観客はカメラの存在を意識しないという前提で傍観者として、同調させることで物語を語る。
主観的のみで構成することは「撮影」という定義に関して、
何故そこにカメラがあるのか、何故撮影するのかという状況設定への問いを抱えることになる。
昨今ジャンルとして定着したPOV形式などはその言い訳のアイディア勝負みたいなものだ。
主人公=撮影者=視点という力技で全編を通したのが今作。
自らを客観的に写すショットはなく、手足など視線の届く範囲のみに限られる。
視点である主人公のアイデンティティを声が出ない、記憶混乱(喪失)という更なる縛りを設け、
ただ行動することのみしか許されない。
観客視点も状況把握できないままカメラと一体化して行動を追うゲームをプレイする感覚だ。
ヘッドセットに取り付けた小型カメラで、実際に生身のアクションをこなしながらなので、
最初慣れないうちは相当映像の揺れ具合に酔う。
でも銃を乱射し、ビルから飛び降り、移動車両でチェイスをこなす迫力は一人称ならではの一体感だ。
でも流石にそれでは90分間の物語は持たないので、主人公の行動を導く先導者を設けている。
ひとりが正体不明のジミーという男。
登場する度に七変化とばかりに容姿が異なり、意味ありげなアドバイスを残して去っていく狂言回し役。
何となく変装俳優であるピーター・セラーズの姿が重なる役柄。
もうひとり、ファムファタールともいうべきヘイリー・ベネット演じる主人公の妻と自称するエステルだ。
最近出演作が続いているが、彼女の滲み出るエロい感じが殺伐とした画面を彩る。
状況説明は虚実は不明だけど、周囲の発言に従うしかない。
観客視点と一体となって真相へとたどり着くまでの行動こそが物語となる。
結構ゴア度は高く、周囲の人が大量に死にまくり、殺伐としているけど、
これだけの制約条件の中、片時も退屈させずに一気に観せる力技は凄い。
所詮は一発ネタとだけど、最高の出来具合に大いに満足。

偏愛度合★★★★