映画とは時間をコントロールするメディアだ。
パッケージ商品としての2時間前後の時間的制約を元に起承転結を設け、物語を提供する。
物理的な時間という尺度は共通のはずなのに、実尺以上に長く感じる作品もあれば、
長尺なのに走馬灯のように過ぎ去りあっという間に感じることもある。
この体感時間の制御こそが演出の根幹をなすものである。
地獄の責め苦の様な90分のゴミ映画もあれば、3時間越えなのに時間を超越する作品もある。
以前に「ヘイトフル・エイト」でも主張した長尺傑作映画におけるグルーヴ論。
音楽に喩えれば、基本となるリズムセクションの腕次第によって、体感時間すらを超越できる。
では映画におけるリズムセクションとは?
映画の最初単位の断片となるカットの編集手法となる。
色彩やカメラポジショニングといったアングルや移動、1カットの長さなどを編集段階で
巧みにコントロールすることが、観客が物語そのものへ安心して身を任せることができる流れ、
すなわちグルーヴを生み出すことになる。
前の公開時の3時間版を多分観ているはず。ただ残念ながら全く記憶からは消え去っている。
今回は4時間近くのロングバージョンだ。
途中休憩なしで通常の映画2本分なので、些か不安だったのは否めない。
結果は4時間の時間を全く感じさせない、
グルーヴ感に満ちた、あっという間に過ぎ去る至福のひと時だった。
60年代初頭の台北、高校生とその家族の日々を描いた群像劇である。
少年、少女の抱える未来への期待感と現実の閉塞感は誰もが一度は経験した普遍的な想いだ。
「殺人事件」とタイトルに謳われているが、決して刺激的なアッパーな物語ではない。
この場所のこの時代の空気感を体験したことない異国の門外漢でもリアルに生々しく描き、
まるでそれは過ぎ去った記憶を懐古するかのような錯覚さえ伴う。
それを醸し出すのが王道のグルーヴ感。
奇を衒った手法は一切ない。
カメラは固定で長回しを基本とし、移動があってもパンはティルト、レールでのゆるやかな引きなどのみ。
極端なアップや短い切り替えし、クレーン手持ちでの高速移動など
如何にも映画的なトリッキーなカメラワークは基本的に使用していない。
エドワード・ヤン監督は元々電気工学の学位を持ちエンジニア出身であり、
その作風も「建築的」と称されていたが、物語全体を思い出し、納得した。
的確なアングルにカメラを据え、必要に応じて動かしながら、人物と事象を生々しく記録する。
カメラ(あるいは操る撮影者)自体の主張は希薄で、あくまでも記録することに徹した極めて合理的な
ショットで、更に編集的な外連味のを配し同じく全く無駄のないた的確な繋ぎで時間的に連続させる。
あくまでも基本となる映画言語のベースに忠実なだけだか、
一見簡単なようで原理原則に何処までも忠実で、かつ効果的であることは途轍もない技術を要する。
手法はミニマムだけど、マキシマムな効果を生む。
これがグルーヴ感となり、4時間という物理時間をあっという間に過ぎ去る体感時間へと変える。
劇中で楽曲が使用され、英題とななっている「A Brighter Summer Days」のように過ぎ去っていく。
偏愛度合★★★★