割とここ最近、僕の心が軽くなった時に、そのきっかけになった言葉や、心が軽くなったときに思えていた言葉を挙げてみます。



一つ目。

・「自分は無価値だ」(=それでいいじゃん)

↑この言葉は、自分には価値がなくてはいけない、とか、価値のない自分はダメだ、といった価値観の縛り(呪(しゅ))がもたらす重荷から解放させてくれました。



そしてもう一つだけ。

・「もうこの世に未練や思い残すことは一つもない」

これ、およそ一週間くらい前に僕が思えた心境です。

外出先からの帰宅中歩いている間に安心感を感じ、
帰宅してこう思えたその時間は、
色んな未来の心配や不安や、取り返しのつかない過去への後悔や、
そうしたことに苛まれたり重荷になっているストレスから解放された思いでした。


何か外側の現象や状況が変わったからではなく、そうしたことが全く変わらなくても、こう思えたらしめたものかとも思います。


先月『ポケットの中のダイヤモンド』(ガンガジ著)を読み、
mananaさんの真我共鳴おためしセッションをお受けし、

その二日か三日後に、そう思える時間を体験しました。

(他セッションの感想は文字数の都合で割愛しますが、お受けできてよかったです^^)



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あと、僕が頭の思考から離れた静寂状態)になるためにやっている、割とやりやすく感じたことのあるto doも書いてみます。


・自然にされている呼吸を意識する
(吐く息に意識を向けていると身体の力が自然に抜けるのも感じやすい)

・周りの空間から自分の身体に向かって意識を向けているイメージ。
(自分の身体が空間に優しく包み込まれ守られているイメージ)
宇宙という胎盤の中にいるイメージでもいい、そんな感覚を意識している

・ハートの中心を意識し続ける→不安などが抜けて平穏を感じた経験をした(mananaさんのセッションにて)(他、一点に視点を固定し観察する側の意識になる)


どれも「安堵感を感じた」等、(少しの変化であっても)感覚が変わったことを一度は感じたものです。

身体が止まってるときや、歩いてる時など単調な動作をしている時がやりやすいと思いました。




追記:記事下書きをした後、よっつさんのスピリチュアル・エレガンスを拝読したら、
「自分は無価値だ」と思ったら力が抜けたという、ほぼ全く同じことが紹介されてて、「シンクロ」って思いました。
探求マインドや意識の視座から人生のシフトを試みようとする場合。

エックハルト・トール氏やレナード・ジェイコブソン氏なども著書の中で表現されているように、

エゴ(思考)の構造を解明する、ことが一つの要諦かと思います。

津留さんなどの伝える想念観察や、バシャールの伝えるビリーフ(信念・観念)体系の全構造を明るみにすることもこれに当たると思います。

Manaさん等の著書でもあるように思考は物質。

(ここはうろ覚えなので解釈が間違ってるかも知れませんがm(_ _)m→)ヌース理論の半田広宣氏による、「外界の事象を扱う物理学と、人間の心・思考などの内面の構造は相似象。ヌース理論はいわば意識の物理学」ということなどを合わせると、

意識を持って(意識だけが自分であるという視座から)、思考など人間の内面とされてきたものを物理的現象として完全に自分そのものから切り離して捉えること

が要諦なのかと思いました。


もちろんそのプロセスで気づきの感動が混じってもまた現象なので、よいと思います。気づきは綺麗な花火みたいなもので。

エクトンの本でも書いてあったかと思いますが、
これからは隠されていたことがどんどん全てを明るみになっていくとありましたが、

その明るみになったものを責めたり批判したり否定したりといったエネルギーを加えずに、

それをただ構造として認識し理解していくだけといったことが大切なように思います。


余談ですが、ある先住民族では、その民族の内一人が悪事を働いた時に、その一人の周りに他の民全員が円になって座り、その一人への感謝の言葉を一人一人最後まで話していくそうです。(図書→『愛とは恐れを手放すこと』)

「罪の語源は、ただの「的外れの行為」でしかない」といった風に『ニュー・アース』の冒頭の方でもありましたが、

責めることは防衛による反発や分離意識などを強化して事態の持続や拡大・強化に繋がり、


感情的な否定などの絡まない、慈愛や見守ることや理解などが、今の時代に必要とされていることなのではないかと思います。

自己探求の成果が効を奏するかどうかの一つのポイントは、

批判されたという思いが介在せずにそうした内面の構造の理解が行われ、

ビリーフに同一化していた自分から気づきの意識の自分にシフトできたか否かにあるのだろうと思います。

こうしたことへの理解と合意が今少しずつ広がっている気がします。
今のところ、僕の分析志向やマインド優勢のため、自分なりに得た情報を通してできるだけまとめていきたいな、というところから、そうした記事を書いてます。

真我だけを求める、というところからすると、僕のしていることはいささか回り道で余計なのでしょうが、

僕の指向性からすると、
「今いるところが今いるところ」で、記憶を持ち運んで構築していきたい思いと、こうしたことを表現したいという意欲が働くので、
これはもうエゴだとしても、それをむやみに抑圧せずその意欲に任せる次第です。


目覚めはギフトでもあり意志でもあるのかも知れませんが、

いちいち考えすぎて頭が「ぷしゅぅ~ぷすんぷすん」とオーバーヒートしてしまうよりも、

今できることでしたいことで、ついやってしまえることを自然に分かち合いできてればいいかな、と思います。

ホーキンス博士の意識のレベルからすると知性は400台で、愛は500台。
それによるといわゆる知性を超えたところがあるとのことですが、
知性が働いていてはダメだとするのももちろん極論なんだと思います。

源(ソース)と繋がって無思考の状態こそが大切なんだということを、思考を否定しなければ真我を大事にできない、というくらいにめっちゃ極端に受け取ってました。

解釈の誤りですが、下地と理解力がないままに情報収集して、咀嚼もせずに盲信したからでしょう。

やっぱり自分というフィルターを通すので、検証作業は大切かと。

真我以外はみんな現れなんだとしたら。

今のこのプロセスも間違いではなく。

ECTONの本の、「人間ボディを持つ皆さんは物理次元をマスターしに来ています」といった文を読んで、なんだか少し吹っ切れた気がしたのかも知れません。

認識の視座が変わって楽になったということの一つに、こうした助けになるメッセージの力があったのかな、と思いました。

友人と沢山話しているうちに、自分でも色々整理されてほぐれたのかも知れません。


そんなわけなので、これからも、今までのような表現もやりたくなったらその思いに任せてやることもあるかと思いました。