続きです。

「振り返り・3」でもエゴについて魂の叫びが入っていたのに、そちらの方では自分の気持ちは素直な分かち合いのエネルギーがこもっていたかと思います。

それが「振り返り・5」の後半でちょっとふとしたものが入り込み、

「振り返り・6」では赦しについて主眼をおいて語りつつ、裁きを裁くようなエネルギーが起こっていたかと思います。

例えがよくないのですが、「ミイラ取りがミイラに」という感じでしょうか。


ジャッジが起こったことをジャッジする、ということでそのエネルギー(感覚や感じ方)の変化を身体で感じることができるので、それにただ気づくのが、自覚のポイントなんだな、と思いました。


観察意識、観賞意識の自分を意識する、ですね。


あああああ、自分のために書いているのに、
読む側の方からすると、すっかり分かった風な人として書いている印象になってしまってるかも知れません。


まあ、仕方ないですね。


赦しについては、「振り返り・3」の時の気持ちの方が素直な気持ちがこもってます。

赦しはどこまでいっても赦しなんだな、と。

うまく言えませんが。

赦しについてはいつか『神の使者』『不死というあなたの現実』の再読をしたり『奇跡のコース』を読みたいな、と思います。これらの教えについて潜在的に関心があるのは今も変わりません。


そうそう、ここまで書いてきてようやく書きますが。

「頭だけの理解では、結局は僕自身が満足も変化も得られない」ということを、ようやくほんの少しは認めてもいいかもと思い出しました。


今も「自分が納得いった分しか変化を受け入れない」という側面が強いことには自覚があります。


ただ、それを思考だけで解決しようとするよりも、

自分ができること、受け取れること、与えられていること、などを受け入れたり気づいたりする、

これをしていこうというこの頃です。


その中で今僕が触れている具体的なツールやアプローチが

・エニアグラム
・自己観察、想念観察
・共鳴意識参加
・エネルギーを受け取る
・身体を感じる
・ブログ情報
・話して放つ


といったところかと。



あと、
ダグラス・ハーディングの自分の本質を検証する実験の動画を見た時は緊張が全く無くなったり、
共鳴の途中、繋がった感覚になれたと思っとき、ほんの数秒ですが平安な感じを感じました。



もうちょっと続けます。
続きです。



赦しというのは、人為的暴力行為を起こすことを奨励するのとは、もちろん全く違うことだと思います。

ただ、やってしまう・やってしまったというものを引き起こす心(エゴ)というものにアプローチするのに大切なのが赦しなんだと思います。

えーまたその話かよ、いい加減うざいな、って思う時もあってもいいと思います。

準備ができたものだけが聞ける、とかいう言葉に、高みから見下すように上からもの言ってんじゃねえ!って思う時があってもいいと思います。


これももちろん、自分の浄化や赦しや理解のために言ってます。

僕の場合、上から下から対等な目線でという価値観にこだわるところがあって、
いくら周囲でその価値観にこだわっている人や文化があったとしても、
結局その価値観にこだわってるのは自分で、こだわってる内はその価値観から起こるジャッジに苦しんだり、反応したりするんだな、ということに最近気づいたことがありました。


なので、「振り返り・3」からエゴは自分のやってる否定的行為と信じてることを裁かれることを怖れていて、
ことによっては裁かれることで楽になるとさえ捉えたりもあるかも知れないなと思いました。

もちろんすべてはケースバイケースだと思うので一概には言えないと思いますが、

エゴは赦しを求めているんじゃないかと思います。場合とエゴによっては非難が赦しになることもあるのかも知れませんが、それはわかりにくいことかと。

「追い詰められた犯人は何をするかわからないぞ」的な言葉もありますし、「犯人だと言われ続けたらそれに合わせてそうなることも往々にしてありうる」というケースもあるなら、
一見社会的には正しいとされる行為も、それは結局どこに着地してるんだろう?と思うことも。

罪を憎んで人を憎まず、という言葉がありますが、行動をただすために人を責めたり罪悪感を抱かせるのは、逆効果に繋がることが多いんじゃないかと思います。



………と書いていて、いいかんじに自分に向いてきたベクトルがいつの間にか外への批判になってないかということに気づきました。この「振り返り・5」の後半で、自分の気づきを広い一般論にしてみても、といえ思考が入った時からかな。


なので、焦点を自分に戻そうと思います。



興味がおありの方以外はお読みにならないと思いますが、相変わらず分割記事で読みにくくてすみません(^_^;)
前回からの続きです。



と、その前に。書いていて結局は、以前のブログスタイルのような連続記事スタイルになってます。
読む側の方々からすると話があっちこっちに行っては戻ったりと読みにくいかも知れませんが、あまり見直さず勢いで書きます。なぜならその方が楽だから。

エネルギーが解放を求めているのに溜め込むのは過剰ポテンシャルの元、と捉えて、
結局今あるものを出ているエネルギーに従って出す、
それが僕の自然なブログ活用スタイルなのかも知れません。


なので、出してしまったあとは、ここに出た言葉を固定的なものとしてこだわるよりも、その一時の残滓として捉えたらいいかと思ってます。まあ、後から見てもあーそうだよな、って思うこともあるんでしょうけれど、

書いたことに合わせなきゃ、と囚われると本末転倒ですから。

やっとこさ、こんなところです。

でも、そのプロセスを自分が認めないで誰が認める?ってところです。
↑この言葉、特に外側から言われたり見かけるとけっこう反発しやすい言葉の一つでした。

「認めたら傲慢になる」くらいの思いでいたくらい、劣等感に苦しんでいたのかも知れませんね。


浄化のプロセスですから。


それから、今まで色んな情報を自分のキャパシティ以上に貪りすぎて混乱して、それに気づいていたけどやめられなかったことについて。

それは頭の悪さや理解力のなさ、知識のなさや判断力のなさなどに劣等感が強かったからです。

それを補って、突出したレベルまで達して、それで 「振り返り・1」で書いたような色んな切なる欲求を満たしたい、と思っていたのでした。

人の英知の目線から見るとなんか違うことは一目瞭然かも知れませんが、そうした思いを手放すことは受け入れられなかった。


今だから思うんですが、うまくいっていない行動をとり続ける人は、余裕がなかったり満たされない思いを遂げようと必死だったりしていて、周りがみえにくい状態に陥ってるだけなんだと思います。

僕がそうだったからという思考は単純な独りよがりかも知れませんが。

良い悪いのジャッジや裁かれることを怖れていて、防衛や攻撃や逃げるの選択をせざるを得ない。

抱えてるエゴが多いほど、ちょっとしたことで反応してRPGの敵とのエンカウント画面に切り替わる。


そんな人ほど赦されたいし赦しが必要なんだと思います(あくまで僕のことですが)。





続きます。