馬鹿が馬鹿なりに考えた、「自分は何のために生きるのか?」の解。 | AQUOSアニキの言いたい放題

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「自分は何のために生きるのか?」


そんな問いに対して、考えたことは誰しもあるだろう。人生の目的について問うていると解釈する人もいれば、自分の存在価値について問うていると解釈する人もいる。


こんな単純な質問のくせに、いくつも解釈が出来てしまう。くだらないといえばくだらないし、「こんなものは答えの無い質問だ」と、考えることすら放り捨てる人だっているだろう。


答えが無いのが答え。これも正解だ。


だが、俺は俺なりに、馬鹿な俺なりに考えたことがある。


「自分は何のために生きるのか?」の解を、俺は俺なりに出した。


恋愛小説だとかドラマで言えば、「君と出会うために生きてきた」

国や思想の為だとか、歴史を見れば「国の誇りのために生きている」

家族愛で言えば、「家族を守るために生きている」


これらは間違っていない。むしろ正解の1つと言ってもいい。俺の答えは、どれでもない。これらの解は、いずれも異なっているように見えながら、実は共通点がある。


その共通点とは、「今現在の自分を中心に捉えた答え」なのだ。


今の自分に愛する人がいるから「君と出会うために生まれた」

思想や誇りに目覚めたから「国の誇りのために生きている」

家族が出来たから、家族がいるから「家族を守るために生きている」


そう。今現在の自分がそうであるから、「何のために生きるのか?」の解が生まれる。

いわゆる、「後付けの解」ということだ。


では、俺はどんな解を出したのか?俺は、「今現在の自分」というものに視点を置かなかった。「人間が生まれて死ぬまでの時間」に視点を置いて考えた。


「自分は何のために生きるのか?」


その解は、「人間は何のために生きるのか?」にも通じる答えだ。

俺が考えた答え。それは・・・


「人間は、生まれてから死ぬまで、自己を構築するために生きている」


そう。愛情に目覚めたり、死別したり、誇りに目覚めたり、宗教に開眼したり、それらは全て自己の構築のためだ。意図するかしないかはさておき、アイデンティティを人間は構築し続ける。


あるときを過ぎれば、人間は達観するようになる。愛情の儚さを知る者も居れば、死ぬまで一緒に居続けたいと思う者もいる。国の誇りのために命を捧げたいと生涯誓う者もいる。宗教に財産を投げ打つ者もいるだろう。


情熱を燃やしてみんなに憧れる存在になることで達観することもあるし、異性にモテることで達観することもある。卑怯者には卑怯者の正義があるし、執着がある。


要は本人が望む望まないはともかく、「人間は自己を構築しながら生きている」ということになる。そして、その価値観は一言で言い表すようなことなど出来ないだろう。


保身に走れば、卑怯だとかセコイだとか言われる一方で、それだけ自分が生きるのに必死だという”正義”や人並み外れた”執着”もあるのだ。人間が生涯を通して、そうやって自己を構築し、完成して生涯を終えていく。


「人は何のために生きるのか?」


これが、馬鹿な俺が俺なりに考えた”答え”だ。