(前回からの続き)

「それから第三の自己本位というセンス。これは人が生まれてから、ずっとごく大ざっぱにみますと、生まれて三十二か月くらいの間には、普通の人が自分といっているそういう自分は意識しているという様子はみられない。で、これを童心の時期ということにします。その三十二か月に引き続く一か年程、これは早生まれだとすれば、だいたいかぞえて四つになるわけですが、かぞえ年の四つになってきますと、運動の主体としての自分がわかるのです。だからこのからだというのを自分のからだと思うのですね。しかしまだ自他の別なんかはわからない。ところがそれに引き続く一か年、といいますと、これは早生まれとすると数え年五つ、だから小学校へはいる二年前ということになります。そのころになりますと、感情の主体としての自分がわかるようになる。それから、意欲の主体としての自分がわかる。だから"この感情"というのを"自分の感情"と思う。そして"この意欲"というのを"自分の意欲"と思う。それからあとだんだんこの"自分"という形容詞は多くのものにつけられてゆきますが、この自分のからだ、自分の感情、自分の意欲という、その"自分"という形容詞が問題になるのです。あなた方、自分のからだ、自分の感情、自分の意欲、と思ってるでしょう。その"自分"という言葉を一度虚心坦懐にどんな言葉かそのひびきを聞いて下さい。だんだんこれもお念仏しているとそれが聞けるようになる。今は耳がつまってしまっていて何も聞こえないでしょう。だから結果を申しますが、これが、内にあやしげなひびきがこもっている。"この"という形容詞とは全く違ったひびきがこもっている。あやしげな自己本位のひびきです。これが第三の要素です。

 第三の要素は何であるか。というと、無明、小我、真我、大我 ━ 本能のために起こるものです。その本能を無明と呼んでいるのです。……… 普通、人が思っている自分、それを「小我」というのです。ところがこれは無明という本能を抑えますと、そういう自分、第三の自分はとれてしまいます。消えてしまいます。無明という本能を取り去ってしまうことは容易じゃない。しかし抑えることによってある部分の無明はうすくすることはできます。……… 無明を消してしまいますとあと二つ残る、主宰者と不変のもの、この二つをあわせたのが本当の自分だから真我です。そのうち不変のものというのは、ともかくそんなものがあるらしい。………不変のものはその本質がわからないからXのようなものです。

 しかしついでに主宰者としての働きもこれは働く位置がわからないから、わからんというよりも、ぴょんぴょんと位置をかえて働く。私が私のことを心配しています間は、私が自分です。あなたならあなたのことを非常に心配していますときは、あなたが自分です。すべてそんなふうになってしまう。それだけじゃありません。自然についてもいえますし、そんなもの越えることもできる。だから広い意味の位置が一定しないのです。そういう意味でやはり未知数Xです。この主宰者としての自分だけを問題にする、これを大我というのです。これはやはり仏教でいうのです。大我の中に安住す、というのがありましたが。だから大我の中に自分が住むのですね。真我が住むことになる、だから大我の中に安住す、となるのです。大我そのものが自分ではない、大我を住み家として自分が住むのです。自分とはわからない。Xが大我の中に安住する。で、大我はつねに真我のいったところに働くらしい。だから心のある、寄せたところに働くというのがそれですね。大我と真我の関係。だから本当の自分というのは、大我の上にすんでいる真我のようなものだ。そういうことになったわけです。そのためにはできるだけ無明は抑えなさい。………」

 

日常生活の中で小我的思考や行動、衝動的な行動を抑えること、前頭葉の抑止力を働かせることを心掛けることが大切だと思う。

 

 岡さんの言われていることに納得する。自己本位のセンス、主宰者としての自分は、日常のなかで思い当たるふしがあるというか、ほとんど自己本位のセンスしか働いてない。不変の自分はまったく未だかって、感じたことはないと思う。日常生活のなかで真の自己とはどんなものか、とかどうしたら真の自己をおぼろげにでも感じ取れるだろうかと思うのだが。たとえ少しでも、一瞬でもそれができたら、それは概念として頭に残るというような薄っぺらなことではなく、肝に銘じるように自ずと深く心に刻みこまれることになると思う。

 

 弁栄上人においては、念仏三昧、道元禅師におかれては、座禅、自受用三昧をお説きになられている。少しの実践で、それを感じ取れたらとは甘い、甘い………。

 

 社会、世の中というのは、自分を小我(自己本位のセンス)と思っている(私も含めて)小我たちの集まりといえる。なかに、餓鬼、畜生、地獄という人以外のものも多くいる。

 

 以前読んだニュース記事によると、令和6年中の小中高生の自殺者数が529人で過去最多となったとのこと。一週間で約10人の小中高生が自ら命を絶っている。

 厚生労働省「自殺対策白書」によると、日本の15~24歳の自殺死亡率(人口10万人当たりの自殺者数の割合)は、OECD(経済協力開発機構)加盟国38か国中、男性は第9位、女性は第7位。また、G7各国における10~19歳の死因において、自殺が1位になっているのは日本だけとのこと。

 文部科学省の調査によると、令和5年度に自殺した児童・生徒の「置かれていた状況」(複数回答可)を尋ねた結果、「不明」が最多で186人で全体の46.9%を占め、「家庭不和」が65人、「父母等の叱責」が42人、「進路問題」が38人、「友人関係での悩み(いじめを除く)」が31人となっている。

 

いじめが原因で自殺に追い込まれた児童生徒は何人いるのだろう?

こども家庭庁の調査では、令和5年度の小・中学校における不登校児童生徒数は約34.6万人で、11年連続で増加し、過去最多となっているとのこと。

 

 いじめられている自分なんて、本当の自分じゃない、お前たちは何をいじめているんだかと達観できる訳もなく、連中の醜さとくだらなさも感じ取る余裕なんかあるはずもないだろう。そんなのは大人でも無理だろう。ただ、少しは長く生きてきた大人としては、各自それぞれの思いをもって対処するんだろうが、まだ年若い青少年には対処するのは本当に難しい。そばにささえてくれる人やものが必要なんだが、そんな人がいるか、ものがあるか、見つけられるかが問題だ。

 

 なるべく自分の殻を壊してみること。小我が自分を取り巻く環境のなかで、作ってしまった殻、固形物のように固まってしまった殻のなかの自分。下手したら他人の悪念まで引っ付いているかもしれない殻を壊す試み。

 

 気晴らしだって、いい。部屋で歌を歌ったり、ネットのダンストレーニングを見ながら身体を動かしてみる。苦手だと思うことをやってみる方が殻はこわれやすい。

 

 笑顔を作ってみる。笑ってみる。笑うトレーニング。アランは人は幸せだから笑うんじゃない、笑うから幸せを感じるんだみたいなことを「幸福論」の中で書いていたが、確かにそうだと思う。

 

失敗する勇気、恥をかく勇気、人に嫌われてもいいという勇気…。