また,次のような問いがある。三学のなかに定学があり,六度のなかに禅度がある。二つとも菩薩が初心から学ぶところである。今言うところの坐禅もそのなかの一つに過ぎないのにどうして如来の正法を集めたものだと言うのか?
この問いに対しては,次のように答えよう。
この問いはそもそも如来(釈迦牟尼仏)が最も大切なものとしている正法眼蔵涅槃妙心,無上の大法を禅宗と名付けたことに起因している。
インドから中国にやって来た達磨大師を初祖とする代々の諸祖は,坐禅にひたすらうちこんだ(「もはらす」)。それをみたおろかな俗人が,その表面だけをみて,坐禅宗と言い,いまは坐の言葉を略して禅宗と言うようになった。しかし,代々の諸祖は,正法眼蔵涅槃妙心,無上の大法,仏正法のなかにいて,その法を行じていたのであり,六度や三学にいうところの禅定を行っていたのではない。見た目とその実は違うのだ。
この仏法は,代々,連綿と正当に伝わってきたものであり,如来(釈迦牟尼仏)が迦葉尊者にだけ付法したものである。その時の有様を,現在,上界にいる天衆の中で目の当たりにしたものがいる。まったく(「おほよそ」)仏法は,天衆がとこしなへに大切にするものであり,仏法のはたらきは今も衰えてしまうことはない。(「その功いまだふりず」)。だから,いま確かに知りなさい。坐禅は仏法における踏み行うべき道の全てであると。
(「まさにしるべし,これは仏法の全道なり。ならべていふべき物なし。」)
また,こういう問いがある。仏家はどうして,四儀(行,住,坐,臥)のなかの坐をのみ禅定の手立てとし,そしてその禅定から悟りに入るというのか?
この問いには次のように答えよう。
昔から諸仏が引き継いできた修行,証入の道は知り尽くすことは難しい。何故 坐による禅定を説くかといえば,それは,仏家が用いているからだということを知りなさい。ほかに理由をさがせないだろう。ただ,祖師は讃えてこう言った。「坐禅はすなわち,身心に苦悩が無く、安らかで楽な状態なのだ」(「坐禅はすなはち安楽の法門なり」)。この言葉から推し量るに,四儀のなかで,安楽なるゆえかと。まして,一仏二仏ではなく,諸仏諸祖みなこの坐禅を行ってきたのである。