三学⇒【定義】仏道修行に於ける、もっとも基本的な修行法のこと。戒学・定学・ 慧学という3つの学を指している。
 戒学:悪をとどめ善を修すること。
 定学:身心を静かに精神統一を行うこと。
 慧学:静かになった心によって、物事の道理を見極めること。

六度⇒【定義】大乗仏教に於ける重要な修行法の「六波羅蜜」のこと。「度」は「波羅蜜」の訳語。

六波羅蜜⇒【定義】「波羅蜜」というのは、梵語[paramita]の音写であり、古くは「度」と訳していたが、「彼岸到」とも訳す。本来の意味は、完全に至った、完璧に渡り終わったという意味であり、修行が完成したこと、悟りの道であることを指す。
【内容】大乗仏教では、大乗の菩薩が実践すべき6つの徳目を定めており、それを六波羅蜜といい(『般若経』など)、「六度」とも言う。

①布施(檀波羅蜜・だんはらみつ、衣食住という財物を与える財施と、法を教え安心を与える法施と、他人の恐怖を除く無畏施とがある)
②持戒(尸羅波羅蜜・しらはらみつ、身口意の三業に関わる戒律を護持すること)
③忍辱・にんにく(羼提波羅蜜・せんだいはらみつ、他からの迫害や苦難に耐え、恨みを抱かないこと)
④精進(毘梨耶波羅蜜・びりやはらみつ、六波羅蜜を修めることを努力すること)
⑤禅定(禅那波羅蜜・ぜんなはらみつ、坐禅を修行し、心を集中させること)
⑥智慧(般若波羅蜜・はんにゃはらみつとも訳すが、智慧を得ること)

正法眼蔵涅槃妙心⇒【定義】釈尊が体得した甚深不可思議の真理の内容を表現した語として、禅宗で尊重される。単に、正法眼蔵とも。

天衆⇒【定義】天上界に属する有情衆のこと。             
天上界⇒【定義】天の世界のこと、上界。
天上⇒【定義】①天の世界のこと、天上界。六道の一で、神々の世界であると考えられている。なお、天上に欲界・色界・無色界があるとされている。

法門⇒【定義】①仏陀の教法は「八万四千の法門」ともいわれるが、それは様々な教えを説くことで生死を脱し涅槃に入らせることを喩えたものである。つまり、法門とは仏道に入るための因縁などを意味している。
②教えの独自性を示す言葉。宗門などに同じ。                            

                          <つらつら日暮らしWiki〈曹洞禅・仏教関連用語集〉>

 

 また,次のような問いがある。三学のなかに定学があり,六度のなかに禅度がある。二つとも菩薩が初心から学ぶところである。今言うところの坐禅もそのなかの一つに過ぎないのにどうして如来の正法を集めたものだと言うのか?
 この問いに対しては,次のように答えよう。

 

 この問いはそもそも如来(釈迦牟尼仏)が最も大切なものとしている正法眼蔵涅槃妙心,無上の大法を禅宗と名付けたことに起因している。

  インドから中国にやって来た達磨大師を初祖とする代々の諸祖は,坐禅にひたすらうちこんだ(「もはらす」)。それをみたおろかな俗人が,その表面だけをみて,坐禅宗と言い,いまは坐の言葉を略して禅宗と言うようになった。しかし,代々の諸祖は,正法眼蔵涅槃妙心,無上の大法,仏正法のなかにいて,その法を行じていたのであり,六度や三学にいうところの禅定を行っていたのではない。見た目とその実は違うのだ。


  この仏法は,代々,連綿と正当に伝わってきたものであり,如来(釈迦牟尼仏)が迦葉尊者にだけ付法したものである。その時の有様を,現在,上界にいる天衆の中で目の当たりにしたものがいる。まったく(「おほよそ」)仏法は,天衆がとこしなへに大切にするものであり,仏法のはたらきは今も衰えてしまうことはない。(「その功いまだふりず」)。だから,いま確かに知りなさい。坐禅は仏法における踏み行うべき道の全てであると。
 (「まさにしるべし,これは仏法の全道なり。ならべていふべき物なし。」)

 また,こういう問いがある。仏家はどうして,四儀(行,住,坐,臥)のなかの坐をのみ禅定の手立てとし,そしてその禅定から悟りに入るというのか?
 この問いには次のように答えよう。

 昔から諸仏が引き継いできた修行,証入の道は知り尽くすことは難しい。何故 坐による禅定を説くかといえば,それは,仏家が用いているからだということを知りなさい。ほかに理由をさがせないだろう。ただ,祖師は讃えてこう言った。「坐禅はすなわち,身心に苦悩が無く、安らかで楽な状態なのだ」(「坐禅はすなはち安楽の法門なり」)。この言葉から推し量るに,四儀のなかで,安楽なるゆえかと。まして,一仏二仏ではなく,諸仏諸祖みなこの坐禅を行ってきたのである。
  

   異世界を舞台にしたアニメは多くあるみたいですが,天衆,天界というのは,どういうものなのでしょうか。異なる次元にあるのでしょうか。ただ,私達には見えない,感じられないものなのでしょうか。そうかもしれませんが,まづ私が思うのは,この世界がそのまま,天,阿修羅,人間,餓鬼,畜生,地獄ということかなあと思います。ニュースを見てると,酷い事件がよくでてきますが,餓鬼,畜生,地獄といったものたちだなあと感じます。そういうものたちがみている世界が,餓鬼,畜生,地獄といっていいのではないでしょうか。歳のせいかもしれませんが,餓鬼,畜生,地獄というものが観念的ではなく,実感として感じられてきます。

 天人といえる人もいままでに多くこの世にでてきたと思います。私のごく狭い見聞のなかですが,最近では,ペシャワール会の中村哲さんがそうではないでしょうか。すばらしい方だったと思います。