サルスベリ

 

 

マリアナの戦いの記事をサイパン、グアム、テニアンと進めていた途中で、米軍従軍記者の読書を挟んでしまったが今回で終わり。わずかにテニアンに関連する話題を残しているので、それを最後に今回のマリアナ連載は一区切りする。

 

シャーロッド記者は、軍民を問わず日本人が死に急ぐのに余ほど驚いたのか、その詳しい様子を幾つも書き残している。読むに忍びない情景ばかりなので転載しない。興味ある方は図書館や古書で本書にあたっていただきたい。

 

 

ただし一つだけ、遺体が出てこないものを引用する。当該箇所の文中に、「テルモピレー」という地名が出てくる。ペルシャ戦争の古戦場の名で、私が高校の世界史の授業で習ったときもテルモピレーだったのだが、今は「テルモピュライ」などと呼ばれているらしい。

 

いったいペルシャとヨーロッパは何千年、戦争したら気が済むのか知れないが、このアケメネス朝ペルシャとギリシャの都市国家連合の戦いは、ダリウス王の第一回の侵攻で始まり、例のマラトンの戦いで敗退。

 

 

テルモピレーはクセルクセス王による第2回遠征のとき、スパルタ軍主幹のギリシャ陸軍が、同地でペルシャ陸軍を阻止している間に、ギリシャ側が海戦の準備を整え、サラミス海戦でペルシャ海軍を撃退したと習った覚えがある。

 

明治陸軍が奉天を占領している間に、日本海海戦でバルチック艦隊を沈めたのと話の構造が似ている。このテルモピレーの戦いを画いた小説を一冊持っているはずなのだが、いくら探しても見つからない。

 

 

 

シャーロッドの文章を参照するにあたり、あやふやな記憶を辿る。スパルタ王レオニダスは、迫りくるペルシャの「雲霞の如き大軍」に向けて、偵察者を放った。その報告によると、クセルクセスの兵団が放つ無数の矢は、天を蔽い陽を遮る有様にてございます。

 

レオニダス王はこれを聞き、しからば我々はおかげで涼しい木陰で戦えるというものだと一言。ヘロドトスが記すところ、テルモピレーの両軍は最後には武器を失って徒手格闘、お互い嚙みつき合うまでして戦った。二〇三高地にも同様の言い伝えがあったような。それではシャーロッド著から、最後の引用。

 

 

また日本人の在留邦人の一部には、みずからその命を断つまえに相当の儀礼をとりおこなうものがあった。

 

その一例として、三名の日本人の女性が、まるでテルモピレーの決死の陣にのぞんだレオニダス将軍と部下のスパルタ軍勢の流儀に大いに似て、岩頭にゆうゆうと坐ってその長い黒髪を落ち着いて櫛けずりつつあった光景には、さすがの海兵たちも呆然と脅威の目をみはって見守るばかりであった。

 

それから最後に、これらの女性はそれぞれ両手を合わせて祈りながら、しずしずと海のなかへ歩いていって姿を消したのである。

 

 

ペルシャ戦争はソクラテスの時代に起きた。西洋人がテルモピレーを象徴的に語り継ぐ理由の一つは、この戦争でもしもペルシャ軍がアテナイを蹂躙したら、ギリシャの地で萌芽したばかりの民主主義、哲学、芸術などが消え失せることになったはずだという、対馬沖と似たような感慨があるからだろうと思う。

 

戦争の悲惨さを語り継がないといけないというのは論を俟たないが、そればかりでは聴き手が疲れる。今月もそういう大量の情報を浴び続けて私もくたびれている。それと同時にあの時代を精いっぱい生きた人たちの逸話も、探せば幾らでもある。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

オニバスの花  (2025年8月2日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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