余談からです。今年に入り、65歳の誕生日を迎える前から「前期高齢者の皆様へ」という類の郵便物が公的機関から届くようになりました。行政は生年月日まで確認することなく、本年65歳になる人をひとくくりにしているようです。

 

その内の一つが「帯状疱疹の予防接種」のご案内で、補助が出るそうです。主治医(内科)に訊くと、近ごろ患者が多いのでぜひ接種してほしいというから、その場で腕まくりして第一回の不活化ワクチンを打ってきました。筋肉注射で副作用は新型コロナと同じ。翌日の打撲のような腕の痛みと、37度台の微熱で終わりました。

 

 

今回の写真は夕食のお店にて。焼酎部隊。

 

 

シャーロッドの「サイパン」に関する記事はあと二回とし、今月末で終わる予定だ。戦時報道については、本ブログで随時、大本営発表を話題にしてきたが、米国ではどんな調子だったのだろう。ほんの一例だがシャーロッドが題材にしている。

 

その対象となった出来事は、既に触れた米軍内の人事騒動。児島襄著「太平洋戦争」(下)の「サイパン島失陥」の章に出てくる”スミス対スミス”事件のことだ。ちなみに児島氏は英文資料に明るく、シャーロッドの「タラワ」を同書の主要参考文献に挙げており、また本件に関するアメリカの国内報道の対立についても言及している。

 

 

スミス対スミス事件と称されているものは、改めて概略のみ記すと、サイパン島の戦いの中盤に、陸軍少将ラルフ・スミス師団長が、海兵中将ホーランド・スミス総指揮官に罷免されるという異様な人事問題が起きた。

 

米軍は日本守備隊の主力が立て籠るタッポーチョ山系に、上陸した島の南側から三部隊に分かれて北進した。中央が陸軍の第二十七師団(長、スミス少将)。左右が海兵隊で右翼が第4海兵師団、左翼が第2海兵師団。途中、海兵隊が先行し、陸軍は遅れた。

 

 

海兵中将ホーランド・スミスは急いでいる。マリアナの戦いに臨んだ米軍は、緒戦のサイパンにおける日本軍が想定外の頑強な抵抗を示したため、当初は続けざまに上陸計画を始める予定だったグアム島への進行を停止していた。

 

シャーロッドの表現を借りれば、タッポーチョでの陸軍の「展開は海兵隊の戦況より見ればあまりに遅々としていた」。それに陸軍の或る連隊は、いまだにサイパン島東南部のナフタン岬の掃討戦に手間取っており、北進できていない。

 

 

本書によると米軍の正式な手続きは、スミス陸軍少将の更迭を総司令官のスプルーアンス中将が命令し、ホーランド・スミス総指揮官が実施した。スミス海兵中将は陸将の指揮権を有するが、人事権はなかったらしい。だが実質はスミス対スミスだろう。

 

ホーランド・スミスは記者会見を開いた。席上、「ラルフ・スミスは私の友だちだよ」とシャーロッドら従軍記者に語った。こういったところも高級軍人の腕の見せ所なのだろう。彼らにとっては狭義の軍事だけでなく、外交や広報も重要な任務だ。

 

 

東郷提督が戦艦二隻を自損で失い謝罪にきた艦長らに黙ってお菓子を勧めたときも、乃木大将がステッセルと集合写真を撮ったときも、イギリスほか外国の従軍武官や報道陣が居る前でのことだったという説がある。多分そうだろう。宣伝効果がある。

 

ホーランド・スミスの説明によると、彼は自らの職責と職権において、陸将スミスに攻撃命令を出したが、「彼は部隊に待てと命令を出したので、私は最早、彼を更迭せざるを得なかったのだよ」。

 

 

 

 

 

シャーロッドによると、彼のみならず誰一人、この件を記事にした従軍記者はいなかった。これは残念なできごとであり、さらに「情勢をひっかきまわして騒ぎ立てる」のはマリアナの米軍にとって有害無益であるうえに、どうせ国内でニミッツに届く前に検閲で潰されるのは明らかだった。

 

ところが、本件はその米国本土でラルフ・スミスの肩を持つ者が、彼の弁護のため公表してしまった。私にとって意外な名前が出てくる。「アメリカ新聞王ハースト」(ウィリアム・ランドルフ・ハースト)自身が、ハースト系新聞「ジャーナル・アメリカ」紙で次の論説を掲げた。

 

 

アメリカ国民は、サイパン島の陥落前にもかかわらず、同島における仰天すべき莫大な戦死者に衝撃を受けた。陸軍側のもっとも慎重な戦術の主張者はその指揮部隊より更迭されたのである。太平洋方面の最高指揮は、もちろん論理上からも効果上からもダグラス・マックァーサー将軍に委ねられなければならない。

 

シャーロッドによると、「これは多数の海軍および海兵隊の指揮者たちを烈火のごとく怒らせるには十分だった」。そもそも戦場の様相が違う。「厳重に防備された島と環礁」における戦闘は、「一定の人命の犠牲を強要せねばならないものだ」。

 

 

また、別のハースト系新聞「エキザミナー」紙も、「海兵隊は高い犠牲を払って迅速な決戦を求めているのに反して、陸軍はより少ない犠牲をもって、慎重に行動したのである」と書き、海兵隊はこれにも強く反発した。シャーロッドが補足している。

 

もちろん、海兵部隊はこの記事を見たときに怒髪天をついたのだ。彼らは橋頭堡で甚大な犠牲を払わねばならないことをよく承知していたのだ。さればこそ陸軍はその後から無事に上陸することができたのであった。

 

 

実際には米陸軍は、7月8日の日本軍の最後の突撃(日本時間では七夕)を真正面から受ける配置につき、二コ連隊の間隙を衝かれて少なからずの犠牲を出した。軍上層や国内報道は、限定的な情報や利権(新聞が売れる等)のために余計な論争を起こしたのではないのか。

 

シャーロッドによると、指導者が交代した陸軍は、タッポーチョ山東側の難所における攻略任務をよくこなした。このあとのグアムの戦いや、沖縄上陸戦において、陸軍と海兵隊は効果的な協働作戦を展開したとのことだ。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

水槽にイセエビ  (2025年7月12日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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