シャーロッド記者は初期に従軍したアッツ以来、日本兵が自決という不可解な方法で次々と自死してゆくのを見てきた。ここサイパンでは、日本兵どころか在留邦人までが同じことをする。他にも西洋人同士の戦争ではありえない不思議な光景を見た。
この先、シャーロッド著「サイパン」は主に米軍の戦闘と、日本人の死に方という二つのテーマを追って進んでいくが、その中で重要なものや自分の印象に残ったものは既に日本語の資料を基に記事にしているし、残り全部を書き上げる元気もない。そこ
であと二回か三回、記憶に残った場面を記してこの本の読書を終えようと思う。
すでに米軍の優位が明白になってきた6月21日、シャーロッドは海軍の航空士官や、オーストラリアの従軍記者と共に、占領を終えたアスリート飛行場を見に出かけた。米軍は勇敢に戦って斃れた戦死者の名を、占領した飛行場名に付ける風習がある。
ガダルカナル島のホニアラ国際空港は、新設当初、日本軍が現地名からルンガ飛行場と命名した。これを横領した米軍はミッドウェーの戦死者の名をとってヘンダーソン飛行場と命名している。
アスリート飛行場も現地の地名から名付けられたもので運動選手ではない。米軍はこれを占領するとマキンの戦死者名を冠してコンロイ飛行場と名付けた。シャーロッドが訪問した時は「コンロイ・フィールド」というペンキ書きの標識板が立っていた。
もっともコンロイ大佐は陸軍軍人であったためか、海軍はミッチャーの判断まで仰いだうえで、アスリート飛行場の航空攻撃で戦死した海軍中佐の名をとって、イズリー飛行場に改名している。イズリーは空母「レキシントン」の雷撃中隊長だった。
この緑のナマコみたいのも珊瑚である由
滑走路はほとんど損傷が無く、格納庫も一部破壊されたのみで「素晴らしい光景」であった。念のため、日本軍はいきなり逃亡したのではない。飛行場の攻撃初日、米海兵隊は日本守備隊の反撃を受け、一旦後退したとシャーロッドが記録している。
さて、一行を驚かせたのは格納庫の内外に、約ニ十機の日本軍の爆撃機や戦闘機が、軽微な損傷が残る程度のまま置き去りになっていた。通常は船舶や航空機や砲などを残置せざるを得ないときは、敵に使われぬよう自ら破壊して撤退するものだろう。
さらにいえば、海軍飛行士官が言うように「逃げ飛ぶこともできた」はずなのだ。
すでに私たちは生還者の証言などから、日本の司令部員や搭乗員は何十名もが、潜水艦に収容されようとして失敗し、最後は陸兵同様に、わずかな武器を持って陸戦に参加した。第一航空艦隊は、どの資料でもテニアンでは航空機なき航空部隊だった筈。
シャーロッドによると、米軍は隣島テニアンからサイパンに渡ろうとした敵航空隊を撃墜している。また米軍は硫黄島から日本の航空隊が応援に来る気配も感じ取っていた。「日本軍はこっそり飛行機を持ち込んでいる疑いがあった」と書いているが、本件の経緯にかかる実状は不明である。
もう一つ、日本語の資料に「死の谷」の名で登場するデス・ヴァレーは、本書では
「地獄の谷間」と訳されている。この「邪魔者」は、ようやく6月29日に攻め落とし、翌30日にシャーロットらは、ジープでタッポーチョの山頂から景観を眺めた。
第2海兵師団の野戦病院は、元日本軍の無線電信所があった建物に設置されていた。すでに680名が入院し、6名が死亡、89名が後送されている。夕食時にシャーロッドに語りかけてきたブルナー軍医は「哲学者」のようになっていた。
私がもっとも深く印象を受けたのはこのことですよ。この日本軍は、彼らが勝てないことをよく承知しているのです。彼らはわずかばかりの武器と少数の迫撃砲以外には、まったく何も残されてはいませんよ。
そしてわれわれは世界中のあらゆるものを持っているのです。ところが日本軍はあくまで闘いつづけ、闘いつづけています。そしてわが軍は、このいまいましいちっぽけな島を勝ち取る前に、一万名の将兵を失いつつあるのですよ。
(おわり)
中央右下にフグ (2025年7月9日撮影)
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