珊瑚は海水温度の上昇に弱いそうです。

 

 

先の大戦当時、アメリカ軍の海兵隊には、衛生兵が所属する独立の組織がなかったらしい。それが新設されたのは戦後だそうで、それまでは海軍の衛生兵が、海兵隊と行動を共にしていた例が、シャーロッドの「サイパン」に複数出てくる。

 

クリント・イーストウッド監督「父親たちの星条旗」は硫黄島の戦いが舞台になっており、星条旗を担ぎ揚げたのは上陸した海兵だったが、主人公の一人(原作者の父親)の衛生兵だけは、海軍の所属でセーラー服を着ていた。シャーロッド書にも「海軍衛生班」が登場する。

 

 

この衛生班は仮設の病院で軍医とともに、自軍の負傷者と病人だけではなく、現地人や間もなく増え始める民間日本人の患者の世話もした。搬送されてくる男の怪我人の多くは南洋興発の従業員だったと記されている。

 

シャーロッドが初めて民間の日本人を見たのは、上陸翌日の6月16日。衛生兵が負傷兵の介抱をしている海岸を移動中のときだった。まだススペ岬の日本守備隊が奮闘中のころで敵弾が沖合にも爆裂していた。

 

 

その途中で、われわれは初めて在留邦人を見かけた。それは三名の女と、一歳から五歳位までの四名の子供であった。二名の子供は泣き続けていた。他の二名は厳格な母親たちの手であやされていた。

 

この母親たちはあまり遠くないところで砲弾が爆裂しても一向、動じなかった。一名の頑強そうな海兵中尉がこの光景をながめて、「畜生、戦争はここまで来なければならんのか?」と、吐き出すように言った。

 

 

 

 

間もなく、「ここまで」どころではなくなるのだが、このころはまだアスリート飛行場の争奪戦が行われており、従軍記者たちは非戦闘員だからさすがに最前線にはおらず、チャランカノアの民家を仮住まいにして、近くに司令所を置いた上陸軍最高指揮官のホーランド・スミス海兵中将の記者会見などに参加している。

 

やがて前線から続々と負傷兵が送られてきて、シャーロッドは衛生兵の活躍ぶりを目の当たりにするようになった。彼によると米軍は本土から輸送船で、大量の輸血用血液を運んでいた。重傷者は沖合の艦隊まで後送されて治療を受ける。ここでも日米の戦力差は懸隔していた。

 

 

シャーロッドはタラワで、わが軍が負けるかもしれないと思ったそうだが、サイパンではそうではなかったらしい。それでも戦闘の規模が違う。戦死者、負傷者が続出した。米軍には「墓碑登録係」がいて、犠牲者の埋葬の手続き等を行っていた。

 

第2海兵師団の墓碑登録の担当将校はジャンヴィア海兵少佐で、彼は立候補してこの役に就いた。その補佐官は戦前までサンディエゴで野球団の監督をしていたトッド海兵大尉。シャーロッドはこの二人の「精励」ぶりを見た。すでにこの現場だけで420名を埋葬している。

 

 

トッド大尉は「死傷者の証拠ともいうべき変わり果てた姿」について、もし故国の人たちが見たら戦意をなくすのではないかと、シャーロッドに「しんみりと語った」。同大尉の証言を最後に引用する。サイパンの海岸付近は心して歩こう。

 

本当の英雄は、ここで私のところにいる六名の海軍医療隊の衛生兵でしたよ。彼らは海中にただよってぐじゃぐじゃになった死体を運んで来るのです。この第2師団は浜辺地区と海中とで300名ないし325名の戦死者を出しました。

 

これらの衛生兵たちは、死体からガスが拡散するとき、胸がムカムカして嘔吐するのです。それでも彼らは何か氏名を識別するものを見出すまで、死体をつついて探しますよ。それから彼らはブルドーザー(自動牽引式の土地工作機)が墓穴を掘るのをまって、埋葬にとりかかかるのです。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

奄美列島の珊瑚礁にて  (2025年7月9日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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