千鳥ヶ淵戦没者御苑にて  (2025年8月12日撮影)

 

 

1971年にジョンとヨーコが発表した”Happy Xmas (War Is Over)”には、「ハッピー・クリスマス(戦争は終わった)」という邦題がついていますが、仮に私ならこうは訳しません。例えば現にこの時点で、ベトナム戦争はなお継続中。

 

ジョン・レノンも歌詞の中で「争いごとはみんな止めようぜ」と語っています。またリフレインの ”War is over if you want it" は思い切り意訳すると、あんたたちが望まなければ戦争は始まらんぞというような意味合いだろうと思います。

 

巨人軍のごとく永久に不滅の伝言なのですが、世界中で耳を貸さない者が増えてきました。かつての多くの皇民のごとく、戦争は賑やかで儲かるし、自分や家族は殺されないと妄信してはおりませんか。あんたたち。

 

 

佐知克 奄美

 

従軍記者ロバート・シャーロッドは上陸日の前日、「死は自分のほかの人たちにおこるものである。もし兵士たちはそう信じなければ、戦いに出陣することをもっとしぶるであろう」と書いた。そういうふうに士気を昂揚する必要があると続けている。

 

彼を含む海兵第2師団の師団次長エドソン海兵代将の一行は、上陸決行日の1944年6月15日の午後、先陣の挺身隊に続いてサイパン島に向かうことになった。エドソンはその許可を師団長から得たが、用意していた4隻の水陸両用車が見当たらない。

 

 

上陸部隊が乗っていってしまったらしい。エドソンは嚇怒し、シャーロッド記者が「かつて耳にしたもっとも効果的な罵言をどなりたてたあげく」、他者から取り上げて4隻揃えた。武器弾薬を満載しており、シャーロッドは迫撃砲の箱の上に坐った。

 

これでは直撃弾をくらったら一たまりもない。どの方向に泳ぐか考えるひまもないなと思ったそうだが、幸い至近弾もなく、14時30分に彼の水陸両用車は「ガリガリと音をたてて海岸に這いあがった」。すでに多くの海兵の戦死傷者が倒れているのを見た。

 

 

海中のモズク

 

 

日本の守備隊の反撃は厳しく、上陸後20分ほどの間、3秒おきに野砲弾や迫撃砲弾が彼らの近くに落下してきた。急いで探し出した避難先は、日本軍の戦車壕だった。これは深かったそうだ(しかし訳文では「深さ七呎」とあり、7フィートは約2メートルだが深いか?)。ともあれ壕には一発も命中しなかった。

 

先発隊もこの壕を使っており、その中に第2海兵師団第8海兵連隊第2大隊の応急避難所が設置されている。そして近くの砲弾の穴の中には、タラワ以来旧知の大隊長ジム・クロー海軍中佐が横たわっていた。怪我をしている。

 

 

この年とった赤ヒゲのジムこそ、二十年間も海兵隊の間で一つの伝説的人物になっていたのである。ジムはいきが苦しそうであったが、彼の青味がかった鋼鉄色の目はいつにかわらず明るく輝いていた。

 

息が苦しいのも当然で、赤ヒゲは「機関銃で肺を射抜かれていたのだ」。胸は広く繃帯で覆われ、他に迫撃砲弾の破片も6か所に受けていた。彼にモルヒネを打っていたジャンタン軍医は首を振りながら、「あまり見こみはないようです」とつぶやいた。

 

 

ジム・クロー大隊長は、エドソン代将に「こんなことになってしまい癪に障りますが大丈夫です」と応じ、シャーロッドには本土で会おうと言った。しかし、やがてサイパン島内の米軍に「ジム・クロー戦死」の報道が流れた。

 

それでも古参の海兵たちは「ジム・クローをゆっくり殺すことはできない」と言い張った。ゆっくり死ぬとは、日本軍の用語でいうとたぶん戦傷死のことだろう。そして翌1944年春、シャーロッドはジムが全米で「講演行脚」をしているとの噂を聞いた。

 


次のサイトによれば、ヘンリー・”ジム”・ピアソン・クロウは回復後、軍役に復帰し戦場に戻った。朝鮮戦争が始まっていたのだ。タラワの戦いでは、海兵隊からだけではなく海軍からも、「部下を鼓舞する指導力、卓越した戦術能力、不屈の敢闘精神」の持ち主であると表彰されている。わが国もたいへんな連中と戦ったものだ。

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

国の天然記念物 ムラサキオカヤドカリ  (2025年7月8日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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