拙ブログ第1977回の題名は、当初「第一航空艦隊の終焉」だったのだが、後日「第一航空艦隊司令部の壊滅」に変更した。旧題が不正確なのは、パラオ方面等に戦力が残っているし、一航艦の組織名も存続したからだ。

 

陸軍の第三十一軍にも同様のことが起きた。軍司令部および主要三島の守備隊も壊滅したが、マリアナ諸島にはロタ島やパガン島の守備隊が終戦まで残ったし、第三十一軍も組織名として残存した。陸軍の戦史叢書(6)の最後の箇所で確認する。

 

 

その前に地名を確かめよう。戦時中の日本軍の呼称と現在のそれは異なるし、現在でも国名と地理学の名称が異なるものもあるのだが、大掴みで十分だろう。かつてカロリンと呼ばれていた地域は概ね現在、ミクロネシア連邦の領土、領海になっている。

 

 

 

同国の在日大使館の地図とその下の説明文が分かりやすい。ミクロネシアの島々は「西側に位置するパラオ共和国と共にカロリン諸島を構成し、東側にはマーシャル諸島とギルバート諸島、北側にはグアムやサイパン島の属するマリアナ諸島」がある。この全体を日本軍は中部太平洋方面と呼んだ。

 

そして日本軍は、この横に長いカロリン諸島を、東カロリン(トラック環礁など)と西カロリン(ヤップ島など)と区分けしていた。上記の説明によると、地理的呼称としてのカロリン諸島は、ミクロネシア連邦とパラオ共和国を併せたものだ。

 

 

マリアナの戦いが終わったとき、東方に孤立無援のトラックやラバウルが残り、西方には敵が来るか来ないか分からないパラオ方面が、海図上では日米戦の最前線に置かれる形になった。

 

パラオについては、いつの日にか本格的に本ブログで取り組むときが来るかもしれないが、現時点では知識不足なので、まずは米軍の動向に関し、手元の書籍の情報を借りる。井上亮著「忘れられた島々 『南洋群島』の現代史」

 

 

 

マリアナ諸島が米軍の手に渡った後、アメリカ軍の上層部で爾後の戦略につき意見が割れた。海軍のキング作戦部長は、フィリピンを迂回して台湾に進攻するという案だったが、部下のニミッツも陸軍のマッカーサーも反対した。

 

最後はルーズベルト大統領の判断で、陸海ともフィリピンに進むことになった。それでもまだ決まらないのはパラオを攻めるか否か。陸のマッカーサーはとにもかくにもフィリピンに急行したい男で、ニューギニアからフィリピン南部に進むという。

 

 

ハルゼーもパラオの日本軍は恐れずに足りずとして、迂回すべしと提言した。しかし最終的にはニミッツが、自国の艦隊が横腹から日本のパラオ航空隊に攻撃されるおそれがあり、またアンガウルに飛行場を造ればフィリピン攻略に役立つとし、同書の表現を借りれば、「こうして南洋群島にもう一つ地獄が加えられることになった」。

 

日本陸軍のマリアナ戦後については、上記の戦史叢書(6)の最終項目に概略の説明がある。大平洋の防波堤となるべく新設された第三十一軍は、昭和十九年(1944年)6月15日の米軍サイパン上陸の日に小畑軍司令官が出張中ということもあり、以後の指揮命令が混乱した。

 

 

これを受けて大本営は、まだサイパン守備隊が戦闘中の6月25日、小笠原兵団(長、栗林忠道中将)を第三十一軍の隷下から外し、大本営直轄とした。こういうことになると仕事が早い。アジ歴グロッサリーより関連記事を紹介する。

 

 

 

更にテニアンとグアムも陥落した後、8月22日には不在となった第三十一軍司令官の後任手配が行われた。とはいっても兼任で、トラック地区集団長でもある第五十二師団長の麦倉俊三郎中将が第三十一軍司令官を兼務することとなった。

 

さらにパラオ地区集団も、比島方面の防備のため、南方軍の隷下に入った。それ以外の中部太平洋方面の残存部隊は孤立したまま、「現地自給に活路を求めた」。ひどい戦争だった。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

白いハスも華やか  (2025年7月3日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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