繰り返し書いているように、我が伯父は陸軍の軍歴証明書によると、昭和十九年(1944年)9月30日にテニアン島にて戦死したという記録が残っている。この日付は大本営玉砕発表の日であり、今回出てくる日付を見れば、他に書きようがなくてそう書いたとしか考えられない。いつどこでどう亡くなったのか不明のままだ。
戦史叢書(6)に戻る。拙ブログでいうと今回は、第1976回の「旬日を出でざるべし」の続きになる。昭和十九年(1944年)7月27日に、いよいよテニアンの米軍が一大攻勢を仕掛けて来た。日本軍守備隊は同29日、島南部のカロリナス台地に集結した。
7月31日早朝、米軍は軍艦2隻、巡洋艦3隻および爆撃機による「攻撃支援砲爆撃」を行った後、テニアン町から水源地マルポの線までの全正面にわたり陸上における攻撃を開始。日本軍も「敢然守勢から攻撃に転じ」た。
激しい攻防先は夕方まで続いたが、日本軍は押されてカロリナスの台地まで後退し、マルポの井戸も米軍の手に落ちた。守備隊長の歩五〇緒方敬志連隊長は31日夜、大本営およびグアムの第三十一軍小畑軍司令官あて、「守備の任務を果たし得ず...」という悲痛な訣別電を打った。
同夜から翌8月1日の朝にかけて、日本軍は住吉神社近辺の米軍に総攻撃をかけた。海兵隊の第一線との白兵戦になったが、反復攻撃を行うも無念、敵陣を突破できず、撃退された。アメリカの海兵隊および陸軍の公刊戦史によると、緒方守備隊長はこの攻撃で戦死したとなっているらしいが、日本側の複数資料では話が異なる。
日本軍はこの敗走で「急速に弱体化」し密林に潜んだため、米軍が追撃態勢に入り、指揮官ハリー・シュミットはこの8月1日にテニアン島の占領宣言を行った。しかし日本側の記録では、緒方連隊長は翌8月2日夜、「伝統と光輝ある軍旗を平井敏明少尉の手から受け取り、これを奉焼した」。この続きを転載する。
残存部隊、民間義勇隊等約一、〇〇〇名は、八月二日二四〇〇を期し、緒方聯隊長の指揮をもって守備隊最後の突撃を実施した。しかし最後の突撃は一般に徹底されないまま決行され、部隊はカロリナス台上の敵陣に突入したが、猛烈な戦車の機関銃、迫撃砲火、あるいは火焔戦車のため死傷者続出した。(中略)
聯隊衛生班齋藤正俊軍曹らの回想によれば、緒方聯隊長はこの状況を見て、さらに態勢を整備すべく後退中負傷しついに凄烈な戦死を遂げた。
角田司令長官も手榴弾を持って壕を出たまま帰らなかった。三和参謀長以下参謀も司令長官に従ってその職に殉じ、第五十六警備隊司令大家吾一大佐も戦死した。
生存者は既述のサイパンやグアムの守備隊壊滅後と同様、あるいは少人数による遊撃戦を行い、あるいは洞窟や密林に潜んで「友軍のテニアン奪回の日を期待した」のだが次第に消耗しつつ、終戦を迎えた。
米軍は投降を呼びかけるにあたり、いずれも米軍捕虜収容所にいたサイパンの大場榮大尉(歩十八)や、グアムの近森重治大佐(独立混成第十三聯隊長)をテニアンに呼び出し、説得に当たらせた結果、「生存者はほとんど投降」。米軍の記録によれば民間に潜入したものを除き、61名が収容された。
(おわり)
水元公園のウチワヤンマ (2025年7月3日撮影)
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