去る6月4日、国連の安全保障理事会はガザ地区での「即時、無条件かつ恒久的な停戦」などを求める決議案の採決を行ったが、理事15か国中、アメリカのみが拒否権を発動して否決された。そしてイスラエルとイランの戦争が始まった。忘れんぞ。
カルガモ親子の季節。左は葛西臨海公園の鳥類園。右は上野の不忍池。
おさらい。マリアナの戦いにおける米軍の指揮官の氏名・肩書を、戦史叢書(6)でざっと復習する。指揮命令系統は上から順に、太平洋方面最高指揮官のニミッツ。第5艦隊司令長官のスプルーアンス。第51任務部隊統合遠征軍司令官のターナー。第51任務部隊遠征部隊(全マリアナ陸上作戦)の指揮官が海兵隊のホーランド・スミス。
以上が全軍の指導者。続いてその下に各部隊が並ぶ。主力は北方攻撃部隊(サイパン・テニアン)の第52任務部隊と、南方攻撃部隊(グアム)の第53任務部隊。このうち北方攻撃部隊長は上記ターナーが兼務。その上陸部隊指揮官は上記スミスが兼務。
マリアナ諸島のうち日本軍が相応の守備隊を置いた大きめの島は、南端からグアム、ロタ、テニアン、サイパンと並んでいる。ロタは計画段階で攻略対象から外された。日本本土の爆撃は他の三島で十分だったのだろう。足りなければロタを攻めて損害を出すよりも、日本に近いサイパンやテニアンに新飛行場を増設すればよい。
指揮官のうちホーランド・スミスのみは海軍ではなく海兵隊で、上陸部隊を指揮する。部隊名でいうと南方のサイパンは第2海兵師団および第4海兵師団。北方のグアムには第3海兵師団が赴いた。北方攻撃部隊はサイパン攻略後、テニアンに移動する。
ヨシハラガニ
ただし、テニアンで司令官が交代した。ターナーは第51任務部隊統合遠征軍司令官を専任し、兼務していた北方攻撃部隊長には、ターナーの副司令官だったヒルが就任。ホーランド・スミスは太平洋艦隊海兵部隊司令官となり、兼務していた北方攻撃部隊長にはハリー・シュミットが就いた。サイパン攻略の論功行賞だろう。
マリアナの戦いは年表風に荒っぽくみれば、敵さんの思い通りの展開となった。まずサイパンが落ちた。そして次のテニアンには海兵隊も輸送船に戻り、艦隊ごと移動したのだと勝手に思い込んでいたのだが間違っていた。
先述のように、テニアン島で米軍の上陸地の候補になったのは、最初のうち海岸線が長いということで、島北東部のアシーガ湾と、島南西部のソンソン湾だった。しかし実際に上陸したのは島北西部の狭い砂浜(米軍の呼称はホワイト・ビーチ)だった。今も昔も小さな砂浜が二つ並んでいる。
この計画変更は米軍が「水中破壊班」に偵察させたところ、アシーガ湾は海中の地形において、上陸に適さない障害があったらしい。続いて南側のソンソン湾との比較になった。7月12日の会議において、新任のシュミットが張り切ってソンソン案に反対しホワイト・ビーチ案を主張した。
いわくソンソン湾はサイパンのガラパンやチャランカに似て、日本人街があり守りも固い。北西のホワイト・ビーチであれば、目の前にあるサイパン島の南部から直接、砲撃が可能。さらに、海兵隊はサイパンからテニアンへ水陸両用舟艇で移動できる。
ただしビーチは狭い。このため、上陸はまず第4海兵師団が先行し、一方の第2海兵師団は南部のソンソン湾で陽動作戦を実施した後、第4海兵師団に続くことになった。戦史叢書にある「米海兵隊戦史付図」を再掲する。
テニアン島は回想録を読むと、台湾を小さくしたような島、菱形、世田谷区と大田区を併せたぐらいの広さなどと形容されている。全体に平たく、高地と言えば島北部のラソ―と、南部のカロリナスくらい。
要図のラソ―山の北側に「第一飛行場」と示されているのが、島内で一番広いハゴイ飛行場。その左(西側)に「白1」「白2」と並んでいるのが、ホワイト・ビーチにある二つの小さな砂浜。
日本軍はマリアナの制空権・制海権をすっかり失っている。もしも偵察が出来たなら米軍が水陸両用のトラクターでサイパン南部からテニアン北部に渡るのが見えたかもしれないが、それに先行して行われた上記の陽動に引っかかることになった。
偵察も何も、戦史叢書の表現では「在島の海軍航空部隊は、既に全飛行機を失っていた」。そして7月18日、「サイパン玉砕の大本営発表が行われ、放送を聞いたテニアンの将兵は、一般邦人とともに、いい知れぬ不安に沈んだのであった」。では次回より、陸軍の進出・配備の状況をみる。
(つづく)
オオヨシキリ (2025年5月26日撮影)
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