前回の続き。これまでの復習。サイパン島ほかマリアナ諸島が本格的に先の大戦で戦場になるのは昭和十九年(1944年)のことで、2月と4月の敵空襲および6月以降の米軍の上陸作戦へと続く。
今回はその前のいわば「戦前のサイパン」についての最後の記事になる。戦雲はむしろ本土から漂ってきたかのようだ。前回の「海の防波堤」の件が昭和八年(1933年)だった。これでサイパンにスポットライトが浴びせられたようになった。
南洋群島の主だった島の中ではサイパン島が一番、内地に近い。貴族院・衆議院の議員視察団、海軍の軍艦や練習艦の寄港、昭和十年(1935年)には三名の皇族が島を訪問。サイパンの街路は「歓迎の人波と日の丸の小旗で埋まった」。
このころサイパンでは在郷軍人会が威勢良くなり、「戦意高揚の行事や戦争に備えての訓練」を行うようになった。前出の斎藤貞三は当時在郷軍人会の理事であり、著者にそう証言している。内地では軍事費が急伸し、昭和十二年(1937年)、盧溝橋事件が起きて「日中戦争」が始まる。
ダイサギ(右)のクチバシは黄色。コサギ(左)は黒。並べてみると大きさはかなり違う。ダイサギは首を伸ばすと全長1メートル近くになる。でもやっぱり似ている。
日本軍が南京を占領した時は、サイパンでも昼間は旗行列や仮装行列、夜になると提灯行列に踊り屋台が出た。しかし、既に本土では物資が不足し始めており、なおさらサイパンには届かなくなって物価が急騰し、配給制になった。
本書はさら不穏なエピソードを伝えている。国家神道が進出してきた。何回か前に軍艦「香取」から香取神宮の御神体を納め、香取神社がサイパンにできたというエピソードに触れた。のちに彩帆神社と呼ばれるようになる。
この神社は当初「小さな祠」であったが、昭和六年(1931年)に新社殿が落成した。そのころまだこの神社は全て在留邦人の寄進に頼っており、例えば新社殿の鳥居は、一の鳥居を南興の松江が、二と三の鳥居は「よか楼」の百次郎が奉納したものだ。
しかし日中戦争の勃発を機に、昭和十二年(1937年)には現地のチャモロ人やカナカ人までが、毎朝早くに彩帆神社のお詣りと宮城遥拝に行くようになった。生き神様の御真影が学校にも届いた。国つ神が天つ神になった。
昭和十六年(1941年)になると斎藤は「海軍将校から幾度となく」、アメリカとの戦争は不可避だと聞かされるようになった。5月、内務省は防諜のためと称し、南洋群島への旅行を引っかえるようにとの通達を出す。7月、日本軍は南部仏印に進駐。
9月、近衛内閣が総辞職し、東條英機の新内閣が発足する。それまで近衛内閣の陸軍大臣だった東條は1月に「戦陣訓」を通達していた。これが効力を発揮する相手は陸軍軍人だけのはずなのだが、サイパンの民間人にも延焼した。
メジロ
「そして、サイパンにも十二月八日の朝がやって来た」。臨時ニュースがあると聞いた斎藤が駆け付けると、電気屋の店先に置かれたラジオに人だかりができていた。斎藤は祖国の勝利を疑っていなかったので、今更さしたる喜びも感慨もなかった。
むしろ弱いはずのアメリカが、なぜこうも外交で強気な態度を続けてきたのか訝しかったし、「ガラパンの街の様子もいたってのんびりしたもの」だった。一方、前出の山形県から移住して来た石山正太郎は、臨時ニュースの報道内容を農場で知った。
その農場の近くで砲台の工事をしていた兵隊さんたちが、12月8日に姿を消し、二三日して戻って来た。「グアムを三時間で占領してきた」のだと言っていた。「十二月十日のグアム島攻略計画に中心となって参画したのは、サイパンに駐留している第五根拠地隊である」。
この上陸作戦で陸軍を支援した海軍機も、アスリート飛行場から飛び立ったものであった由。グアムは大宮島と改称され、翌年初めに民生部も置かれた。そしてシンガポールも陥落し、サイパンでも祝賀会が開かれた。
「忘るな皇軍への感謝 鋭気の固め」という幟(のぼり)を立てて街中を練り歩くサイパンの在留邦人。このとき既に、ミッドウェー海戦で戦況が一転していたのだが、彼らには真相が届かない。
南興も久しぶりに活気づいて、事業の拡張に着手した。ラバウルでは「軍需品の荷役や鋳造」を始めた。マニラでは「製糖所や搾油工場の経営」を進めるべく事務所を開設したその当日、昭和十八年(1943年)2月1日、ダガルカナルから日本軍が「転進」を始めている。
(つづく)
東京都葛飾区の香取神社 (2025年1月7日撮影)
以下、記事とは関係がない。この神社は上掲の鳥類の写真を撮った都立水元公園の近くにある。公園近辺は東京、千葉、埼玉の県境が走っており、葛飾区は千葉の三郷(みさと)や埼玉の八潮に隣接している。中部山岳地帯の国境は稜線が多いが、関東平野は河川が多い。土地柄が違う。
三郷と八潮を結ぶ道路がある。先般、八潮市にある大きな交差点で、道路の陥没事故が起きた。この下書きを書いている時点で、文字通り懸命の救出作業が続いている。長年、労災防止の仕事をしているし、運悪く転落したトラックの運転手が74歳とお聞きして胸が痛む。一刻も早くの救助を切に願う。
上野五條天神社の紅梅 2月6日