上野のムクゲ

 

 

サイパンの戦いは、終戦後までゲリラ戦が続くのだが、それについては既に少しは書いたことだし、敵占領宣言と大本営発表で決戦は一区切りついた。この先、グアムとテニアンの戦いが始まるのだが、しばらく脇道にそれる。

 

本ブログは年に三回くらいだが、たまたま検索でご先祖やご親戚の名を拙文内に見つけた方からの御礼のコメントが届く。これは本当に嬉しい。少しは手間暇をかけて連載してきた甲斐があるというものです。

 

 

伯父が最後に所属していた陸軍部隊は、マリアナに派遣された第四十三師団・歩兵第百十八連隊(以下、歩一一八)である。私の知る限り、この部隊には戦闘詳報も連隊史も名簿もなく、小さな新しい慰霊碑が静岡の護国神社にあるのみだ。

 

そもそも自分自身、伯父の戸籍が出て来て、県庁から陸軍の軍歴証明書を取り寄せるまで、連隊名など知らなかった。おそらく他にこの部隊名を知る人がいるとすれば、同連隊の戦死者や戦友のご遺族ほか関係者ぐらいだろう。

 

 

彼らに私と同じような苦労と出費をさせずに済むように、これまでも知り得た情報は逐次このブログに書き残してきた。一方で、ここにきて二件の追加情報を得たので、次回以降、これらの所在地(図書館など)および内容の概略を記す。

 

そのうち一件は、そのつもりもなく出かけた九段の「しょうけい館」の資料室で、何の気もなしに連隊名で検索してみたら出て来たのだから、犬も寺本も、歩けば災厄もあるけれど幸運もあるのだ。今回は、そのついでに別件の資料も見つけ、複写してきたのでご案内。

 

 

谷中のオウム

 

 

目の前にあるコピーは、近衛文麿「最後の御前会議/戦後欧米見聞録」(中公文庫)の冒頭の10ページほど。近衛文麿と山本五十六が交わした会話について、ちょっとした好奇心があった。同書に書いてあるらしいということは前から聞いていた。

 

一般向けの歴史書などに、開戦前の近衛当時首相が、山本五十六大将に対米戦となった場合、どうなると考えているかと訊いたところ、半年や一年は暴れてみますが云々と答えたと書いてある。映画「トラ!トラ!トラ!」にも出てくる。この会話に至る事情と、正確な近衛の記録が見たかった。

 

 

以下、あくまで近衛個人の主張するところである。彼には「日米の衝突を極力回避せねばならぬ」事情が三つあった。理由の一つめは三国同盟(後述)。二つめは、海軍が日米決戦に反対であると考えていた。三つめは「物資関係」。日本には物が無い。

 

近衛によると「そもそも三国同盟は日独ソ三国の連携を前提として締結せられたのである」。ところが独ソが開戦した。すでに西欧では第二次世界大戦のさなかであり、ソ連は連合国の仲間入りをするだろう。そして日本は米国の敵側になってしまった。

 

 

そうなると、特に英米に「物資関係を依存」している日本の立場は経済面・軍事面で苦しい。この点、近衛首相が企画院の鈴木総裁に質問したところ、石油以外は何とかなるという返事があった。その石油も「人造石油事業」が軌道に乗れば、蘭印を占領して敵を増やすより安心安全というような説明だったらしい。ははあ。

 

次に海軍はどうか。前職の海軍大臣、吉田善五海相は、三国軍事同盟に反対だった。しかし彼が急病で辞職し、後任の及川古志郎海相が就任すると、海軍は三国同盟賛成に転じた。不信感を抱いた首相は、豊田貞次郎海軍次官に事情を問うた。

 

 

次官から「海軍としては実は腹の中では三国条約に反対である」という返事が来た。しかし「海軍が賛成するのは政治上の理由からであって、軍事上の立場から見れば、いまだ米国を向こうに廻して戦うだけの確信はない」。

 

近衛首相は驚いた。私の理解では海軍省は行政府であり、海軍大臣は近衛内閣の一員なのだが、近衛にとっては海軍省は「海軍」なのであり、海軍は「純軍事上の立場からのみ検討」するのが国家への忠誠であるという。理解に苦しむのは私だけか。

 

 

海軍省も海軍であるという点は海軍次官も同意見で、「今日となりては海軍の立場も御諒承願いたい」と応じ、できるだけ三国同盟の軍事上の援助義務が発生しないよう「外交上の手段で防止するほかに道がない」。

 

そこに聯合艦隊司令長官山本五十六大将が上京してきた。山本は三国同盟に対しては米内光政とともに「最強硬なる同盟反対論者」である。豊田次官とのやり取りを伝えると、山本長官は「今の海軍本省はあまりに政治的に考え過ぎる」と不満げだった。

 

 

近衛首相は、政治のことは我々政治家に任せてほしいと書いている。このころになると軍政は軍部である(行政府に非ず)という考え方が、彼のみならず豊田にも、そしてやや抑え気味だが山本の発言にも見え隠れする。

 

この軍国主義国家では、軍事と内政外交は別問題らしい。近衛は山本に質問した。「余は日米戦争の場合、大将の見込み如何を問うたところ、同大将曰く」。この先が世に知られることになった。

 

 

「それはぜひやれと言われれば初め半歳か一年の間は随分暴れて御覧に入れる。しかしながら二年三年となればまったく確信は持てぬ。三国条約ができたのはいたし方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避するよう、極力御努力願いたい」。

 

 

ぜひやれと言われればやると聞いて、近衛は「海軍の腹は解った」と記している。この上は三国条約の運用と、対米交渉という外交に尽力しなければならない。そして始めのうちこそ日米交渉には陸海とも積極的だったらしい。

 

しかし段々と陸軍が消極的になっていった。さらに海軍も連絡会議において、永野修身軍令部長が、ソ連が連合軍に加わると自信が無いが、「米国とだけは何とか戦う自信はある」と発言した由。日米交渉はその後も続けられたが、結果はご存じのとおり「経済断交」そして開戦となった。戦争は三年たっても終わらなかった。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

クスノキ科タブノキ。渋沢栄一墓前にて。 (2024年10月1日撮影)

 

 

 

 

ヒドリガモのつがい 10月30日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

.