カイツブリ

 

 

このブログは伯父の行方を捜すというだけの目的で始めたものの、前回のように時に勢い余って天下国家を論じてしまうため、政治目的で書いているのではないことを改めてお断りする。少し文章が荒れます。

 

私は強い思想信条の持ち主ではないし、特定の政党の支持者でもない。このため選挙のときは毎回苦労する。最終的には新聞の折り込みで届く選挙公報を読んで決めるのだが、この点、ポスターや政見放送で話題になったように、本年の都知事選は無残だった。そしてまた衆院選。そんなに選挙が好きなのか。

 

 

こういう姿勢は右翼左翼からみると無定見に感じられるらしく、実生活でもブログのコメント欄も、左右双方から攻撃される。左右の極地に偏ると楽で、仲間はみな同じ意見だし、敵は片方にしかおらず、同じ言い回しで非難し続ける。

 

性格的には保守で、あまり世の中が急変するのは好まず、少しづつでも暮らしやすくなってほしいと願うのみ。そのためには、どの政党が政権を持とうと、与党にしっかりしてもらわなくては困る。そして与党を批判すると、感情的な反発に遭う。それでも民主主義という面倒なものを運営していくには軋轢が伴うのもやむを得ない。

 

 

話の本筋にもどる。サイパン守備隊による最後の突撃は、昭和十九年(1944年)7月7日の未明に始まり、同日午後には終焉した。米軍の損害も大きく、第一線の陸軍歩兵部隊が途中、第106連隊から第105連隊に交代し、米砲兵隊は砲を残置して後退した。前掲「烈日サイパン島」に米軍資料からの引用がある。The empire strikes back.

 

日本軍の悲壮は攻撃は、いままでのどんな攻撃よりも激烈だった点で、それをこうむったものは誰でも象の群れの襲来のように思ったであろう。通常、戦闘の激烈さは戦力や死傷者の数によって測定されるが、これ以上に兵士個々に与える心理的効果を考慮されなければならない。

 

 

コガモ

 

 

この私にまで「組織的戦闘とは言えない」などと言われながら、この瞬発力はどこから出てきたものなのか。手元の回想録にはごく一部の現象かもしれないが、司令部は酒盛りばかりで、引っ越すたびに酒を運ばされたとか、将校が役に立たず、動くと「見つかって狙われるから動くな」と言われたとか、末期的な証言が並んでいる。

 

遠い昔に読んだ本に(確か会田雄次著「アーロン収容所」だったか)、乱戦の最前線において誰が指揮者になるかというと、組織や階級に関係なく、その場の総意で誰かが自然と選ばれるといった趣旨のことが書いてあった。最後にそういうことが起きたのかもしれない。戦史叢書に米国公刊戦史からの引用がある。

 

 

日本人捕虜の言によると、総攻撃に参加した兵力は約三、〇〇〇名と推定される。日本軍の戦死者のうち隊号の判明した者は、第百十八、第百三十五、第百三十六連隊、第四十三師団司令部、同野戦病院、独立山砲兵第三連隊、船舶工兵第十六連隊、海軍各部隊および労務者であった。

 

 

伯父の連隊名が登場するのは、これが最後。私はまだ伯父がテニアンで戦死した可能性を捨ててはいないのだが、ともあれ彼の部隊の戦争は終わった。7月の8日と9日、日本軍の小規模な突撃に遭いつつ、米軍は島北部の掃討作戦を進めた。

 

9日には海上から水陸両用戦車の支援のもとに、米軍が島の北部先端に達したとき、遠征軍司令官ターナー提督は、7月9日の日本時間15時15分にサイパン島の占領を宣言した。軍艦島は不屈の闘志で抵抗を続けたが、7月31日に陸海からの砲撃で陥落した。

 

(おわり)

 

 

 

ダイサギ  (2024年9月21日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

.