今年7月の第1805回において、大本営陸軍部戦争指導班「機密戦争日誌」(軍事史学会編)にある昭和十九年(1944年)6月23日の日記を参照した。サイパンに来るとは「敵の過失」だという眞田部長や服部課長の発言が記録されている。

 

今回はその翌日、6月24日の記載事項のうち、二つ目の項を引用する。ちなみに一つ目の項は、当日が独ソ開戦の一周年というもの。現代仮名遣いに改める。

 

海軍の「あ」号作戦に関し、陸軍と協議の上、中止するに決す。即ち帝国は、サイパンを放棄することとなれり。来月上中旬にはサイパン守備隊は玉砕すべし。最早、希望ある戦争指導は遂行し得ず、残るは一億玉砕に依る敵の戦意放棄を待つあるのみ。

 

 

すでに6月20日にはマリアナ沖海戦の経過速報が届き、「大本営の空気は暗澹たり」という状況になっている。マリアナに関しては、先に大本営が戦意喪失した。「あ」号作戦中止命令という公文書はまだ見ていないが、実施主体の連合艦隊が、敵機動部隊の所在が明らかであるマリアナ方面に行かない以上、実質的に終わったのだ。

 

6月25日、「戦藻録」によると宇垣中将は、久しぶりに柱島泊地にいる。GFほか艦隊司令部は研究やら打合せやらで忙しそうだが、実戦部隊は待機のみで、彼は映写を観ている。修理や改造が終われば、南方に向かうことが内定していると聞いていた。

 

 

次に児島襄「太平洋戦争」(中公文庫)を参照する。児島書は上掲の青字引用の「機密戦争日誌」にあった「一億層玉砕のみ」いう捨て鉢な文章を転載した上で、次のように怒っている。

 

海軍に「あ」号作戦再興の力なく、制空、制海権を敵手にゆだねている以上、増援部隊の派遣もまた不可能である。ゆえに、サイパン放棄やむなし、というのである。しかし「サイパン確保の自信あり」の公言はどうなったのか。参謀本部の自信は、海軍に頼ってのことではなく、陸軍独力で島を保持できる意味のはずだった。

 

それなのに、かくもあっさり放棄を決めるとすれば、参謀本部の公言は世にも無責任な虚勢である。サイパン三万人の将兵と二万人の市民は、ただその虚勢のために砲火にさらされたことになる。東條首相はサイパン邦人に対して激励電報を打つことを提案したが、あまりにしらじらしい措置だとして、大本営連絡会議で否決された。

 

 

イナゴ

 

 

今なお米国艦隊はサイパンとテニアンを包囲している。大本営はマリアナ方面における艦隊決戦を断念したわけだから、同方面の日本陸海軍の最高指揮官や各部隊の司令部が在るサイパンが落城すれば、グアムもテニアンも個々に同じ運命をたどる。

 

児島書はこのあと、「サイパンでは、この放棄決定は知らなかった。それどころか、ひたすら救援を待っていた」と続く。これについてはサイパンやテニアンで、連合艦隊や友軍機が救援に来るのを待ち望んでいた声をこれまでも拾って来たし、これからも出てくるだろう。

 

 

たまたま今回の記事にたどり着いてお読みの方がいるとすれば、なぜ私が東條以下、大本営陸軍部にこれほど厳しい言葉を浴びせているのか、眉をひそめておられるかもしれない。個人的な事情もある。

 

寺本家の家業と家督を継ぐはずだった伯父がマリアナで戦死し、遺骨も遺品もないまま、祖父母をして遺族の悲しみに沈めた。とはいえ不機嫌は他人様に感染するので、ほどほどにしなくては。次回は肩の力を抜こう。

 

 

上記の児島書からの転記にある「あまりにしらじらしい措置」という件は、出典が示されていないが、「それでは信用ならん」という方々のためにご案内。「機密戦争日誌」の6月29日の記録。

 

サイパン邦人に対し総理より激励電報を打電すべく研究中なりしも、大本営政府連絡会議に於て懇談の結果、中止に決定せらる。

 

これだけなので、「あまりにしらじらしい」は著者が行間を読んだものだろう。現地邦人が待ち焦がれているのは激励ではなく増援だ。救けに行くとは言わぬまま、頑張れだけでは聞かないほうがましだ。そして現地の戦局は急激に悪化する。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

ツクツクボーシのシルエット  (2024年8月21日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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