クロサギ

 

 

サイパンには若いころに三回ほど家族旅行で渡航している。今となっては夢のまた夢だが、当時は同じ日数の国内旅行より割安だった。ジャンボジェット機が満員御礼。そして今や成金国家のなれの果て。出直し出直し。

 

サイパン国際空港は、かつて日本海軍が造成、使用したアスリート飛行場の子孫で、島南東部の平地にある。この空港のそばには、テニアン島を往復するセスナ機の航空会社もある。小さな機なのでスーツケースと持ち主が、一緒に重量計に乗る。

 

 

米軍のサイパン上陸作戦を前半と後半に分けるなら、戦史叢書も同様の書き方になっているが、前半は上陸後の陣地構築とアスリート飛行場の攻略。後半は日本軍守備隊の掃討と全島の占領。

 

前半は昭和十九年(1944年)6月18日の飛行場陥落で一段落し、後半は19日より日本軍の撤退、戦線の整理から始まる。偶然なのか当然なのか知らないが、マリアナ沖海戦の二日間と重なっている。

 

 

上陸した米軍三コ師団のうち、海兵第2師団はいったん進軍を控えて待機した模様で、アスリート飛行場には海兵第4師団および陸軍第27歩兵師団が向かった。ヒナシス丘陵を超えて戦車を走らせている。

 

この米軍の進攻は、18日午前9時頃始まり、10時にはもう終わった。日本軍はすでに海岸からヒナシスまでの間で敵を迎えた主力が戦力ダウンしており、アスリート飛行場の守りは手薄だったらしい。あまり資料がないのだろう。手元の日本側の戦史には、総じて詳細が書かれていない。

 

 

米軍資料からの引用が戦史叢書に載っている。飛行場を奪取したのは陸軍第27歩兵師団の第165歩兵連隊。守備隊の佐々木部隊(独立歩兵第三百十七大隊)は、南東端のナフタン山に孤立し、米軍は東岸のラウラウ湾に達した。引用された米軍資料より。戦争は殺し合いだけではなく、奪い合いでもある。

 

日本軍の飛行場爆破は不徹底であり、これまでに鹵獲した中で最大の部品工場と飛行機があった。なお、酸素工場、発電所、ガソリン貯蔵所等があり十分利用できた。

 

 

これも釣果

 

 

米軍はダガルカナルのときもそうだったが、まだ日本軍守備隊の掃討が始まったばかりのタイミングで、さっそく飛行場を使い始める。さらにサイパンの場合、この島の南部に砲台を設けた。狙った先は目と鼻の先に浮かぶテニアン島の日本軍。

 

6月13日以来、第三十一軍の戦闘司令所はガラパン東側の山中にあり、一方、第四十三師団の司令部はオレアイの東側にある南興神社に置かれていた。直線距離は5kmぐらいだろうが、連絡が途絶し、相互の連絡が取れていない。

 

 

そのためか、6月18日の午前に第三十一軍の井桁参謀長が大本営およびパラオの小畑軍司令官に打った電報には、とんだ誤報が含まれており、第四十三師団の齋藤師団長が戦死とある。中央では大急ぎで後任の手配に走ったが、翌19日に訂正電が来た。ではその井桁参謀長の報告電を現代仮名遣いにかえて転載する。

 

一  第四十三司令部は、オレアイの東南約2,500メートルにあり、掌握中の部隊は三コ中隊のみ。他の諸部隊の状況は全く不明なり。

二  敵は猛烈な艦砲射撃と爆撃の援護下に前進しつつあり、島の南半分は敵の占領下に在り。

三  第四十三司令部は本日午前、敵の攻撃を受け師団長は幕僚と共に戦死せり。

四  軍戦闘指導所はガラパン埠頭の東1,800メートルの山中に在り。敵は大挙、ガラパンの南より進撃し、戦闘司令所に迫りつつあり。

 

 

参謀長井桁少将は、戦史叢書の付記するところ、「第一線守備隊の多くは部隊としての組織ある戦力を失いつつあった」との判断により、軍の戦線を整理し、「タッポーチョ山付近要域を確保して決戦を準備することし、各隊に命令を伝達した」。師団長戦死の報を受けての判断だが、誤報と知ったときには各部隊が撤退戦を始めている。

 

中日新聞社社会部編「烈日サイパン島」によると、齋藤芳次師団長たちが作戦指導をしている戦闘指揮所は、「ヒナシス丘陵の北側で、アスリート飛行場やサイパン水道が見える洞くつであった」。その続きを引用する。

 

 

そこへ、敵の艦砲が一発飛び込んだのである。洞くつの入り口にいた兵士たちが一瞬のうちに吹き飛び、斉藤も倒れた。吹き飛んだ兵士の血や肉片を全身に浴びた斉藤を見て、伝令が報告に走り、戦死の電報が日本へ飛んだのであった。が、師団長はかすり傷だけで生きていたのである。

 

伝令もさぞかし動転していたのだろうが、それにしても師団長の生死の確認もしなったらしい。もしも息があって大怪我をしていたら、救命避難を急がねばならないのに。軍司令部の電報も拙速だ。確かに「組織ある戦力」は失われつつあった。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

奄美名物の鶏飯。今回で奄美群島・加計呂麻島の写真を終えます。

(2024年7月14日撮影)

 

 

 

 

 

 

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