佐知克(さちゆき)の浜辺
陸軍参謀本部は、昭和十九年(1944年)6月17日の夜、サイパン第四十三師団の齋藤師団長より、現地部隊の反撃が「不成功に終わる」との報告を受け、また同様の速報は海軍の南雲中将からも届き、追加の対応を迫られた。
取り急ぎの増援は主に次の三要素。一つ目は本土からの人員物資の追加派遣。二つ目は第三十一軍の小畑軍司令官一行へのサイパン帰還命令。三つ目はグアムおよびテニアンに分散配置している第三十一軍の兵力に対するサイパンへの進出命令。
これらは全て失敗した。このうち本土からの輸送計画は先に続く話なので、今回は概略のみ。海軍の協力が不可欠である。戦史叢書(6)によれば、大本営では陸海軍部の協議が行われ、「上陸した米軍を撃退するに必要な一部兵力と資材を早急にサイパンに投入する」と決定した。「イ号作戦」と呼称することになった。
「イ号作戦」の目標は「渾作戦」と同様、兵力・資材を送り込むことにある。輸送船団と護衛艦隊は海軍が編成する。選ばれたのは第五艦隊。今となっては懐かしいキスカの「ケ号作戦」を成功させた。
第五艦隊は、「北東方面部隊の基幹部隊」であるが、これを北太平洋から引き抜く。海軍は早くも17日夜、同艦隊に横須賀への進出を電令した。主力は巡洋艦主体の第二十一戦隊、そして「ヒゲの木村」の第一水雷戦隊。
木村昌福さんは同郷で母校の先輩であり、互いの実家も近いので馴れ馴れしいのだ。だいたい静岡の人間は、気性がのんびりしていることで知られている。あのキスカの局面で、帰ればまた来れると言えるのは、静岡人しかいない。
この時点での輸送物資案は弾薬、火砲、米二千立方、兵員は千人。たまたま豪北の第四十六師団を追及予定だった歩兵第四十六連隊(鹿児島)が門司で乗船準備中だったので、至急、横浜に前進するよう内示した。その後については、稿を改める。
二つ目の小畑軍司令官のサイパン帰還命令について。6月17日、東條総長は「手段を尽くしてサイパンに帰還し、直接作戦を指示されたい旨」の電報を打った。小畑軍司令官一行は、サイパン上陸作戦開始時、西カロリンのヤップ島を視察中だった。
軍司令官らは急報を受けて翌16日にパラオに渡り、17日には総長あてに返信している。万難を排し帰任の予定であるが、早くとも19日になる。それまではパラオから作戦指導したいと伝えた。「あ」号作戦が進行中だ。
戦史叢書は、この時点ではまだ日本海軍がパラオに米機動部隊が来ると信じている時期だから、19日以前は無理という判断に影響を与えていただろうと推測する。そもそもマリアナには制空権が殆ど無いのだから至難である。
だが東條総長は耳を貸さず、折り返し速やかにサイパンに戻れと指示した。軍司令官一行はひとまずグアムまで戻ることに決め、「あ」号作戦も終了したた6月21日に海軍の中攻でグアムに渡った。24日には陸軍の飛行第二戦隊から百式司偵を呼び寄せたが、ついにサイパン行きは果たせず、グアム陥落まで同地に留まった。
三つ目の増援は、テニアンおよびグアムの守備隊に対するサイパンへの直接支援命令だった。テニアンには、在サイパンの第四十三師団・歩兵第百二十五連隊(名古屋)の第一大隊が配置されている。
テニアン守備隊長の緒方敬志第五十連隊長は、この第一大隊から集成一コ中隊(速射砲配属)を編成し(長、第一中隊長兼松兼一中尉)、「大発三隻により十七日から三夜にわたって逆上陸を行ったが、その都度、米艦隊に阻止され、ついに上陸を断念して引きあげた」。
グアムでは「行岡支隊」が編成された。同支隊長は第十八連隊第三大隊長の行岡莭生少佐。サイパンでは同連隊の第一大隊が苦戦している。小畑軍司令官らに見送られ、6月22日、グアムを出て第一挺身地点のロタ島に移った。
こちらも大小発の舟艇機動。マリアナの海は潮の流れが速く、苦労したらしい。支隊はロタで逆上陸の機会を伺っていたが、戦況好転せず、ついに第三十一軍は作戦を断念し、29日に支隊は軍命令によりグアムに戻った。いずれも戦友の力になれず、さぞかし悔しかっただろう。
最後にトラック基地。陸軍の第五十二師団は、輸送船舶の不足もあり、長大な距離の進出は実現しなかった。海軍の第四艦隊は、佐世保の第一〇一特別陸戦隊(落下傘部隊の約百名)の投入準備をしたが、これもサイパンの戦況悪化で中断した。
中央では、6月18日にサイパンよりアスリート飛行場とタッポーチョ山周辺を喪うという凶報を受け、6月19日に「確保任務」の「イ」号作戦に加え、「撃滅任務」の「ワ」号作戦(ニコ師団)の増派を決め、上奏することになった。
(つづく)
風に飛ばされて漂う私の麦わら帽子と様子を見に来たアオウミガメ
(2024年7月13日撮影)
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