この紙は先般の帰省時、実家に置いてあった荷物から出てきたもの。1990年代にミクロネシア連邦へ旅行にいったとき、現地在住の邦人から頂戴した。右下に”TRUK”とあるように現在のチューク諸島、かつてのトラックの略図だ。

 

右側にあるのが”MOEN”島(旧軍は「春島」と呼んでいた)の拡大図で、その南端にあるコンチネンタルホテルに宿泊した。北端に国際空港がある。南の島の人たちは、みんな親切で明るかった。いつか本ブログに、そのときの様子を書き残したい。

 

 

  

奄美の島の花

 

 

海軍の戦史叢書(12)「マリアナ沖海戦」に、「六月十七日の状況」という一項目がある。「あ」号作戦決戦発令の翌々日。マリアナ沖海戦の前々日。皇国の興廃を左右する緊迫の日々が続いている。

 

この日は夜までサイパン島が通信不良であったため、テニアン島の第一航空艦隊より、14時12分に中央へ状況報告が発信されている。両島周辺に敵の特空母および戦艦がそれぞれ4~5隻、巡洋艦も4~6隻が見える。

 

 

加えてテニアンからは、「米飛行艇四機がサイパンに着水」するのが見えた。同夜、通信が復活したサイパン中部太平洋方面艦隊からの電報によると、「飛行艇五」が西海岸の輸送船団泊地に着水した。この時機に何をしに来たのか。

 

翌18日に、これらの飛行艇は行方不明になり、輸送船が減った。この時機にどこへ向かったのか。米艦載機によるマリアナ各島への空襲は続いていたが、17日は「前日に比し遥に少く」、翌18日にはさらに「激減した」。

 

 

戦史叢書は角田部隊(一航艦)の動向にも触れている。17日は肝腎のマリアナ方面における索敵ができなかった。これは南鳥島陸攻隊が硫黄島に移動中であり、「またトラックが陸攻兵力皆無」だったことに因る。

 

そのかわりサイパンの米艦隊に対し、ヤップおよびトラックから、航空攻撃を行っている。ヤップ島からは彗星17機(うち11機未帰還)、銀河2機(うち1機未帰還)、零戦31機(うち16機未帰還)が発進し、特空母1隻に直撃弾1、2隻に至近弾を与えて大宮島(グアム)に帰投した。

 

 

トラックからは月光1機、天山5機が発進し、輸送船団を襲った。米軍資料によると、歩兵上陸艇46号が魚雷一発を受けて沈んだ。また、連合艦隊はマリアナ沖海戦に備えて航空隊の帰投先に大宮島を選び、その確保を図るべく西カロリン方面の戦闘機集団に対しグアムに転進すべしとの命令が出た。

 

  

堤防で釣り

 

 

宇垣纒「戦藻録」には、大宮島には直ぐに上陸作戦は行われないだろうという彼の判断が載っている。すでに連合艦隊にも、サイパンの連夜の夜襲が「未だ成功せず」に終わっているとの南雲中将からの報告が伝わっている。再び海軍の戦史叢書より、陸上戦の様子。

 

全般的に逐次後退、夕刻にはヒナシス丘陵の陣地も奪取されるに至り、第三十一軍司令部はガラパン東側の指揮所をタポーチョ山北側二粁の山中に移動した。

 

 

これに対し、以下は陸軍の戦史叢書(6)によると、米軍の第5海兵軍団司令官ホランド・スミス中将(スプルーアンスの次席)ほか米軍の首脳陣がサイパン島に上陸し、チャランカノアに指揮所を開設。オレアイの飛行場に空母搭載の観測機4機が着陸して活動を開始している。

 

最後に陸海の戦史叢書に、この17日に第一線に届いた電報が引用されているので転記する。上段は海軍中央から連合艦隊あて。下段は東條総長から第三十一軍あて。なお今回に限らず電報は原文カタカナで、句読点がないため適宜補足している。私が剛毅不屈の通信兵だったら、「いま忙しい」と打ち返すだろうな。

 

 

此の度の作戦は国家の興隆に関する重大なるものなれば、日本海海戦の如き立派なる戦果を挙ぐるよう作戦部隊の奮起を望む。

 

貴軍作戦の成否は実に皇国隆替の懸る所なり。全将兵、士気を愈々振起し、剛毅不屈飽くまで宿敵を撃滅し、以て聖慮を安んじ奉らんことを期すべし。

 

 

(おわり)

 

 

 

小学校の壁絵。これはアカショウビンだろう。 (2024年7月12日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

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