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ネキトンボ
前回に引き続き、山本七平著「一下級将校の見た帝国陸軍」より、もう一か所を参照する。第二章の題は「すべて欠、欠、欠.....」。著者が入隊したのは通称「東部十二部隊」、正式名称は「近衛野砲兵連隊」だった。
その部隊の営門をくぐり、初めて連隊本部の建物前で整列させられて、彼の記憶では連隊副官から、組織や建築物の説明があった。その中で著者はさっそく「おかしいではないか」と思う表現があったと回想している。こういう挨拶だった。
第一中隊から第三中隊までが第一大隊、第四中隊から第六中隊までが第二大隊、本連隊は第三大隊は欠である。
著者は第三大隊が何かの事情でこの地を離れているのかとも考えたが、目の前の兵舎も砲廠も、大隊ニコ分しかない。初めから「欠」というのは不可解であり、連隊と称するのは嘘で、近衛野砲兵二個大隊と名乗るべきであると書いている。
それはそれで、結局、どちらかの大隊長が連隊長を兼ねてまでしてでも、連隊を名乗りたいのが軍隊というものなのだろう。実際、戦時に連隊長が戦死するとそうなるのだが、平時でも近衛でも、欠のままで平気ということに強い違和感を持ったらしい。
従って私は今も、戦史に登場する何個師団とか何個連隊とかいう言葉を、絶対にそのまま受け取っていない。それらはすべて、欠、欠、欠が幾つとなくつづく存在だったはずである。
イチモンジチョウ
この点、戦史叢書は正直で、欠、欠、欠が幾つとなく続いているのをよく見かける。それでも限界はあり、伯父の連隊は海没で連隊長が戦死し、戦力もほとんど無しとなったが、陛下より聯隊旗を賜っており、軍旗がある以上、組織は名目上、解体出来ないし、欠にならない。これが山本の云う陸軍の「精神構造」、「事大主義」だった。
前回の第二十九師団派遣後まもなく、先述のように陸軍は関東軍の諸隊から、一部の部隊を間引きして幾つかの「派遣隊」を急造し、太平洋に送った。間引きされた親元の隊には、全て欠が生じた。
ポナペ行きが変更になりサイパンに派遣された第一派遣隊の例を挙げる。戦史叢書のスクリーン・ショット。さぞかし「第三大隊 欠」の連隊が増産されたことだろう。
このうち歩兵第十連隊第三大隊は、敵上陸当日の闘いに登場するので、後にその名を挙げる。欠が出ている部隊は、司令部さえあれば、しばしば主力と形容される。歩兵第十連隊(岡山)の主力は、後に満州から台湾、比国に渡った。
ちなみに戦史叢書は米軍資料より、サイパンへ上陸した海兵隊ニコ師団の兵員などを記録しているが、連隊名の記載はなく、例えば第2海兵師団は「歩兵8.5大隊」、第4海兵師団は「歩兵9個大隊」などと員数に応じて表示されている。合目的的である。
なお、この山本書によれば、新品の「あ号教育」も、「それまでの夜間演習が主体になり、森林内からの射撃が加わった程度」であった。珊瑚の岩盤は固いとか、熱帯病対策とかは、教官や指導者も知らないのだから、どうにもならない。
ここに至るまで南東方面や中部太平洋方面で苦戦してきた陸海の将兵から得られたはずの情報、教訓が活かされていない。憚りながら申し上げると、現地事情に限れば当時の伯父より、今の私のほうが詳しいかもしれない。前回に関連し、日本軍がアメリカとの戦い方を知らずにいたことが、最大の「欠」だと山本七平は言っている。
(つづく)
水元公園のオオタカ (2024年6月7日撮影)
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