今回次回は千葉の大町公園。アオスジアゲハ。
前回は大本営陸軍部だけの話題に終始したので、今回は前々回「水際撃滅を確信」の続きになる。陸軍部の確信も、それを頼りにしていた海軍の判断も、当てが外れた。改めて、ここでの水際撃滅とは「徹底した水際陣地と、早期の反撃によって上陸進行部隊の撃滅」にことだと戦史叢書に記されている。
敵の上陸進行部隊という表現は、或る程度の上陸は許すという前提なのだろう。過去の例からして、本格的に上陸を狙って来た敵をはねつけて、諦めさせたことはなかったはずだ。作戦上は、上陸までに散々痛めつけておき、上がってきたら叩いて潰す。
戦史叢書(6)の記録では、米軍のサイパン侵攻は、大きな損害を受けながらも、午前早々には第一陣が上陸を果たしている。日本時間で6月15日朝の7時15分に上陸用舟艇等が前進を開始。7時40分にチャランカノアとオレアイの海岸に「達着した」。
これが米上陸部隊の第1波であり、第4波まで続き、初日の上陸を終えたのが8時。前出の「20分で8千人上陸」というのは、この第1波の開始から第4波の終了までの時間と人数を指す。本土や関連部隊にも、当日の早朝にこの報告が届いた。
この朝八時に、豊田副武連合艦隊司令長官は「皇国ノ興廃此ノ一戦ニアリ 各員一層奮励努力セヨ」と発電した。同時刻に小沢治三郎司令長官の第一機動艦隊が、ギマラス泊地から発進した。
もっとも「あ」号作戦決戦発動の電信(連合艦隊電令作第一五四号)は、すでに同日〇七一七に出ており、「一層奮励努力せよ」は陸軍の戦史叢書(6)にあるように、「その士気を鼓舞激励した」ものだろう。
ジャノメチョウのなかま
この8時の決戦発動について、その前の朝4時過ぎから、サイパンの中部太平洋方面艦隊とテニアンの第一航空艦隊が、輸送船や空母の接近、上陸用舟艇の稼働などを報告し続けているので、さすがに前日まで敵上陸を疑っていた軍令部も目が覚めたか。
11日に始まった空襲はマリアナ諸島だけではなく、小笠原、硫黄島にも敵襲が続いている。さらに、この15日夜半、「夜中の23時半頃から」(東條参謀総長の上奏より)、B-29の北九州爆撃があった。実際には日付が変わって16日未明らしい。北九州市のウェブ・サイトより。
この状況下で陸軍では本土防衛も緊急課題になったが、海軍は15日の時点では「あ」号作戦の遂行が中央における眼目だった。15日(時刻不明)、大海令二八号が出た。発信者は嶋田軍令部総長。原文カタカナ。
横須賀鎮守府司令長官は、横空主力をして作戦に関し、連合艦隊司令長官の指示を受けしむべし。細項に関しては軍令部総長をして指示せしむ。
上記大海令の大命に基づいて、細項を示した連合艦隊電令作第一六ニ号が出ている。こちらは発信時刻が書いてあり、十五日二一一五。
一 7AB(北海道、千島の配備兵力欠)を北東方面部隊より除き、大海令二八号に依る横浜派遣隊と併せ、八幡AB(指揮官ニ七航戦司令官)を編成し、当分本職之を直率す。
二 八幡ABは一部兵力を可也速に硫黄島(一部南鳥島)に配備、当面の作戦に任じせしむると共に、主力を以六月十八日、硫黄島(一部南鳥島)に進出待機し、「あ」号作戦決戦に投入すべし。
このままでは、私にはほとんど暗号文だ。ABというのは帝国海軍の符号の一つで、空襲部隊を意味するらしい。第一行の冒頭の7ABは本文中に「第七空襲部隊(第二十七航空戦隊)」と書いてある。北東方面艦隊の下にある。
この部隊のうち、北海道と千島の配備兵力以外を北東方面艦隊から引き抜き、横須賀航空隊派遣隊と併せて、「八幡部隊」(長、第二十七航空戦隊司令官、松永貞一中将)を編成し、連合艦隊司令長官が直率する。その兵力は硫黄島(一部を南鳥島)に配備し、主力は6月18日進出予定。
編制された途端に、「あ」号作戦が失敗するのだが、この6月18日に八幡部隊が増援されるという情報は、私が所蔵しているテニアン島からの複数の生還者の著書にもある。本来は「あ」号作戦用の部隊なのだが、現地では待ちに待った連合艦隊も八幡部隊もついに来なかったという文脈で出てくる。
まだ先の話だが、進出計画は硫黄島周辺の悪天候に悩まされ、待機しているうちにマリアナ沖海戦が終わってしまい、行き先を失ってしまった。なお、編成日の夜に北九州の空襲があり八幡製鉄が襲撃されているが勿論偶然で、たぶんいずれも八幡大菩薩にあやかっての命名であろうかと想像する。
(つづく)
ウツギ 通称、卯の花 (2024年5月21日撮影)
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