どうにも記憶があいまいだが、確か平家物語に、戦傷で死にゆく兵が義経に最後の望みを訊かれ、どうか自分の名を残してほしいと頼んた後、こと切れたという場面があったように思う。

 

先の戦争や津波の被災などで亡くなった方々の慰霊碑、鎮魂碑をよく見る。その際、あまり品のよい行為ではないが、まずは戦没した個々人の氏名が刻まれているか否かを確かめる。ワシントンD.C.にあるベトナム戦争戦没者の慰霊碑は、巨大であった。未見だが沖縄にもある。

 

 

祖父と父が読売ジャイアンツの大ファンであったため、うちの実家は昔も今も、購読しているのは読売新聞であり、ついでに配達員さんが余った静岡新聞を置いて行ってくれる。中日新聞に連載された「烈日サイパン島」は読んでいない。単行本になったのは有難い。

 

この書籍に、伯父の歩兵第百十八連隊に所属していた人たちが、わずかながら出て来る。あとがきに300名以上の生存者や遺族に面接取材したとあるので、戦後取材に応じたときの戦友の証言なのだろう。関連するものは全部読んだ。

 

 

最初に登場するのは伯父と同じ第三大隊の杉山太喜男上等兵が、運命の「はあぶる丸」に乗り、輸送途中にシラミに悩まされた戦史。彼や伯父が雷撃されたのは、6月6日の昼過ぎであったとのこと。

 

その次に僚船「高岡丸」に乗った第二大隊の松野茂雄軍曹が、対潜監視の任務中に「雷跡発見」した直後に海没。歩一一八の軍旗は連隊旗手の土居定吉少尉が確保し、近くに浮いていたボートに無事確保されたと知った。

 

 

沈んだ三隻のうち、「玉姫丸」はこの松野軍曹が波間で救助を待つうち、目の前で沈められた。第一大隊付の大池清一伍長は夜の海で凍えた。なんぼ熱帯の海が暖かくても、体温よりは低いのだから長時間浮いていると体の芯まで冷える。

 

この海没事故が多数の犠牲者を出した一因は、救出作業が遅くなり夜中になったため遭難者の発見が難しく、また酷い火傷を負っているものが多かった。護衛艦も自らが危ないから必死で、「この忙しいときに、死人を揚げるな」と怒鳴っていたらしい。

 

 

第一大隊第三中隊に所属していた沢野修一郎兵長は、ヒナシス山の戦闘において至近弾で負傷し、旧姓三浦特志看護師が勤務したドンニイの陸軍野戦病院に入院した。タッポーチョ山が落ち、野戦病院の閉鎖命令が出た。

 

三浦たちが隊長と呼んでいた病院長の深山軍医中佐は、歩けぬ患者に乾パン五枚と、持っていない者には手榴弾も添えて配り、「靖國神社で会おう」と涙の目で告げた。沢野兵長は脚が無事だったので歩いて病院を去った。直後に背後で多数の炸裂音を聞いた。のちに沢野兵長はドンニーに忍び戻ったが、放置された遺体の山を見た。

 

 

シオカラトンボ

 

 

同じころ第三大隊の七中隊人事係、鈴木四郎次曹長もドンニイで入院生活を送っていた。「はあぶる丸」沈没の際、ガソリンを浴び、火がついて全身やけどを負い、司令部近くの病床にあった。病院がドンニーに移動し、患者は歩いて転院した。

 

病床といっても毛布一枚無く、テントを張った治療室の周囲の地面に寝ていたのを三浦看護婦も見ている。治療もなし、糧秣もなし。敵が迫りくるのを知り、独力で病院を脱出した。鈴木曹長がいたころは赤十字の幕を張って空襲を避けていたが、のちに容赦なく銃爆撃されるようになったのを隊長と三浦が経験している。

 

 

鈴木曹長は、7月7日の最後の突撃後も生き残ったが、11月中旬の敵掃討作戦で機銃に右腕をやられ、血が噴き出した。戦友を先に進ませ、彼一人、砲弾の穴に入りこみ、「土をかぶせて、自分で自分を埋葬した」。ところが土砂が繃帯替わりになって出血が止まった。

 

終戦後も戦友と生き延びたが、ある日、力尽きて最期どうするか、二者択一の議論をした。独身者四名が自決、妻帯者四名が投降を主張した。とりあえず捕虜になろうと司会の鈴木曹長が九票目を入れた。鈴木の幼子は、出征したとき生後十か月だった。一同、無念の涙が乾くころ、手榴弾を捨て、白旗を掲げて山を降りた。

 

 

ドンニー野戦病院から落ち延びた沢野修一郎兵長は、後に第十八連隊衛生隊長の大場榮大尉の一団に合流している。大場隊の一人、あの憲兵の加賀守伍長も「勝川丸」の遭難者だった。加賀が大場の指示で民間人収容所に潜入し、パガン島に出張予定の菅野静子の夫に折衝した件も記録されている。

 

戻って来た菅野氏は、米軍が上陸しなかったパガンの様子と比べ、戦場になったサイパンが余りに惨めだと泣いた。在パガンの天羽閣下の伝言は、菅野が口頭で大場に伝えた。「一兵もあますことなく米軍に投降せよ」。

 

沢野の記憶では、12月1日に山を下るとき、一同が歌ったのは「露営の歌」だったそうだ。勝ってくるぞと勇ましく、誓って故郷を出たからは。さてあともう一人、伯父の戦友の証言記録がある。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

谷津干潟のカイツブリ  (2024年5月10日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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