本年、遺骨収容の事業で沖縄本島に参った際、洞窟の中に埋まっていた古銭。左から一銭、五銭、十銭。五銭玉と十銭玉は、死戦苦戦を乗り越えてという願掛けに使われた由。ひめゆりの塔の近くにて。

 

 

 

キアシシギ

 

 

たまには現代の話。私が子供のころは北海道や東北に自衛隊の精鋭が集い、はるか後方の沖縄を中心に米軍基地があった。いま沖縄では自衛隊拠点の展開が進み、今年からアメリカ海兵隊のグアムへの移転が始まる。仮想敵さんが代ったらしい。

 

一方、米海軍は今なお首都圏の海の玄関、三浦半島に鎮座まします。横須賀米軍基地は世界最大の米海軍拠点であり、戦略的に最重要級の米軍基地であるとサイトの自己紹介にある。米空母「ロナルド・レーガン」が去り、ただいま後任待ち。

 

 

 


サイパンは大丈夫だと言い切った大本営陸軍部が頼りにしたのは、主として歩兵の兵員(ニコ師団強)と砲数だったのは戦史叢書で見てきたとおり。歩兵や砲兵は弾を撃って初めて戦力となる。最後の突撃のころには武器が不足で弾数も尽きていた。

 

本ブログの6年くらい前の記事に書いた覚えがあるが、テニアンの陸上戦から生還したひとの手記を読んだ。彼は兵站の部署にいたので、最初の水際作戦のころは後方にいた。いよいよ全員突撃というときを迎えたが、しかし銃を持っていない。

 

やむなく地に斃れたままの戦友の武器を何人かで拾いに行った。小銃はあった。しかし弾丸は多い人でもニ十発ぐらいしかなく、これで歩兵は戦っていたのかと気の毒になってしまった。読まなきゃよかったと思った「伯父の戦争」の回想録の一つ。

 

 

期待を一身に背負って進出した陸軍のニコ師団は、それぞれ歩兵三コ連隊を擁していたが一部を敵潜にやられ、実質、各ニコ連隊余になり、配置変更を余儀なくされた。到着した順にサイパン、グアム、テニアンへと、時には大隊単位で配置されてゆく。

 

先発の第二十九師団のうち、海没事故があった歩兵第十八連隊(豊橋)は、サイパンで兵力回復にあたった。大場榮大尉の衛生隊も含まれている。第三十八連隊(奈良)は高品彪師団長ほか司令部とともにグアム。第五十連隊(松本)は急遽テニアンに送られ、陥落するまで主力となった。

 

 

ヤマトオサガニ(左)とヨシキリガニ(右)

 

 

次発の第四十三師団は、主としてサイパンに配置された。再掲すると歩兵第百三十五連隊(名古屋)は北地区の西岸一帯(ただし第一大隊のみテニアンに移動)。敵上陸地点となった海軍地区(ガラパン)や中地区(オレアイ、チャランカノア)には、第百三十六連隊(岐阜)が置かれた。

 

前掲菅野書に特志看護婦の彼女が、兵隊さんに出身地を訊いている場面が良く出て来る。たいてい愛知県か岐阜県だった。陸軍の野戦病院にゆく前には、海軍の患者も診ていた。中地区におかれた警備隊や空挺団の唐島部隊の負傷者もいただろう。

 

 

第四十三師団の齋藤師団長は、当初その司令部を中地区チャランカノアにある南興神社(南洋開発が発起した神社)に置いたと戦史叢書に記載がある。特にチャランカノアの守備を重視したのは、その内陸側にアスリート飛行場があるのも一因だろう。

 

先述した第一派遣隊は、他部隊と併合のうえ、独立混成第四十七旅団(長、岡芳郎大佐)に編成替えとなった。この旅団の司令部は戦車第九連隊と共に、チャランカノアの内陸部にあるヒナシス山方面に置かれた。島南部の中央あたり。

 

 

配備はコロコロ変わっているので、これ以上の詳細は米軍上陸以降、各戦闘場面で確かめる。最後に第四十三師団のうち、うちの伯父の第百十八連隊(静岡)の残部について。戦史叢書の表現を借りれば、海没後「約一、〇〇〇名上陸」。「戦力は極度に低下した」。

 

「約」一千人というのは数える暇もなかったからに違いない。約千名の上陸が6月9日、米軍の空襲開始が11日だ。そして、どの戦史や手記を見ても、海没後に生き残った兵は衰弱し、軍装も兵器も糧秣もない。

 

 

丸裸で手ぶらの者までいた由。多くの兵はぎゅう詰めの輸送船室に辟易し、暑さしのぎに裸になって甲板にいたらしい。前掲書「烈日サイパン島」にも「ほとんど敗残兵」と記されている。その割には少しだが戦闘経過に出て来るので後述する。

 

ちなみに陸軍の輸送船については、伯父のサイパン行きと同じころ、比国に海上輸送された山本七平が前掲書において「地獄船」、「いかなる奴隷船もどのような強制収容所も、これに比べれば格段に上等」と罵っている。その詳細、転記する元気なし。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

タヌキとすれ違った日  (2024年5月12日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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