今回と次回は葛西臨海公園。ソリハシシギ。

 

 

ここしばらくマリアナ沖海戦と個人の記録に集中していたら、サイパンの総攻撃前夜まで進んでしまった。いったん全体像のあらましを再確認すべく、公刊戦史に戻る。「戦史叢書第006巻 中部太平洋陸軍作戦<1>マリアナ玉砕まで」。地味な話題。

 

復習。昭和十八年(1943))9月30日の御前会議にて定められた「帝国戦争目的達成上絶対確保ヲ要スル圏域」(いわゆる絶対国防圏)について、戦争叢書は「陸海軍はおのおの同床異夢を画いていたものと思われる」と評価が厳しい。

 

 

陸軍は太平洋において、後ろ(本土近く)から固めてゆくという方針であり、海軍はいまなおトラック基地を前線の要城とし、南東方面の戦闘を継続する所存だった。カロリンとマリアナの戦備強化が必要であると陸海軍の中央協定にあるのだが、まだ漠然としており、具体策がない。

 

その後、陸軍は後述するが大いに対策が遅れた。海軍は勝手が違った。中部太平洋で11月にギルバート諸島、翌年2月マーシャル群島が攻略された。そしてトラックの大空襲。これは実損のみならず、心理的な打撃も相当大きかっただろうと当時の回想録を読んでいて思う。戦史叢書の表現でいうと、陸海とも「異常な衝撃」を受けた。

 

 

この2月、海軍は中部太平洋艦隊を創設し、錬成途上の第一航空艦隊をマリアナに進出させ始め、陸軍は第三十一軍を新設した。そしてようやく第二十九師団のマリアナ進出を決める。その陸軍の上奏が2月3日、発令が同10日。もう絶対国防圏の決定から5か月も経っている。

 

遅れた理由の一つであった輸送船不足の問題は、このあと陸海とも大臣と総長が兼務になり、当面の調整をした。こうしてようやく海軍の「あ」号作戦の計画策定と、陸軍の大陸からの動員計画が本格敵機に動き出す。

 

 

千早正隆が指摘していたとおり、この時点でマリアナ諸島に陸軍兵力はない。正確には後の師団派遣の準備のため、第十一師団からの296名の「先遣隊」が入っている。マリアナの警備の主力は、海軍の第五特別根拠地隊(長、辻村武久少将)だった。

 

  

チュウシャクシギ

 

 

大平洋では昭和十九年に入ってから、敵潜水艦による船舶の被害が急増した。陸軍は兵力の移動に関し、かつては官民ともども日の丸の旗を振って送り出していたのに、急に秘匿方針になった。特に大陸では、仮想敵ソ連に戦力減を悟られてはいけない。大陸でも本土でも、輸送列車は夜中に動くようになった。

 

また、動員する部隊も「師団丸ごと幾つも」では目立つという考え方であろう、複数の連隊から基本的に一コ大隊を抽出し、一まとめにした「派遣隊」が急造された。このうち、まず第一派遣隊がサイパンに来た。各派遣隊の長は、大佐級の兵団長。

 

 

こうしてマリアナ諸島には同年3月までに、前後して第三十一軍、第二十九師団、第一派遣隊、戦車第九連隊、4月には二コ目の師団である第四十三師団が進出していくが、計四隻の輸送船が雷撃で沈没し、当初の配置計画に大きな変更が生じた。

 

次回以降、この調子で詳しく書くと日が暮れるので、サイパン上陸時点のマリアナの戦力だけでも整理したい。特に前回まで個々に出て来た、部隊名や個人名の組織上の位置付は、はっきりさせたい。ほとんどみんな還らなかったのだ。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

キアシシギ  (2024年5月12日撮影)