本文と無関係のこぼれ話。3月にガダルカナルに参った際、レセプションの席上で現地の方と英語で四方山話をしていたとき、彼が先日ダイビングで「イイチ」に行って来たときの様子を語り始めた。しばらく何のことだか分からなかった。

 

せめてサブマリンとでも付け足してくれればよかったのに。モグラ輸送の際にカミンボ湾で沈んだ伊号第一潜水艦のことだった。伊一は撤退決定の直後に遭難。前に潜水艦と戦車にはいっぺん乗ってみたいと申した。詳細は書けないのだが、まずは潜水艦に乗りましたので速報す。

 

 

コウホネの花

 

 

さしたる結論も出せねまま、一連の「訣別」の記事を今回で終える。サイパンの陸海指揮者の自決は、一部で伝わるところ公開で行われた行事であったはずなのに、こうも諸説紛々としているということは、将官集団自決の通説は怪しいと考えてよい。

 

戦史叢書からして、三人だったとも一同が会してとも書いていない。次々と将官が自決したという前掲の箇所も、平櫛参謀の戦後回想と、「サイパン島在留邦人の戦争協力に関する資料」だけが参考文献となっており、後者は題名からして民間人だろう。

 

 

先回触れた「南雲中将の訓示」も戦史叢書に全文があり(この記事の一番下に貼付する)、参考文献は「太平洋戦争経過概要 戦争当時、戦争日誌等を資料として海軍緒功績調査部員が調整したもの」となっている。誰の記録なのか、これでは不明。アジ歴に同文献の表紙のみ載っており、第二復員局が調整したものだ。

 

貴重な生の声なのだが、「その人が語るその人の戦争」であって、どれほど真相、全体像に近いかどうか判然としないままだ。今回は「元軍人が小説形式で語るある人物の戦争」。豊田穣著「波まくらいくたびぞ」(講談社)。

 

 

 

主人公は南雲忠一。航空母艦の艦隊を率い、波を枕に幾たびかの戦いに力を尽くし、最後は船舶のない航空艦隊の司令長官として戦死した。戦後の評価は低く、豊田はあとがきで「私のこの著作は、そのような俗説に対する反論でもある」と書き残した。 

 

この豊田書にも、上記の訓示が引用されている。しかし若干、戦史叢書との間に細かい相違点がある。この訓示は大本営等に打電されたものではない。電報か公文書があれば、食い違うはずがない。そして豊田が戦史叢書から転記したものでもない。

 

 

しかし、訓示がなされたのは間違いない。その証拠は海軍の戦史叢書(12)にある。電文中に「サイパン守備部隊ニ与フル」という命令が残っているのだ。その前に訓示している。文中の「TYF」は中部太平洋艦隊の略称。発信者は南雲司令長官。原文カタカナ。

 

七月六日 〇二〇三  TYF長官 → 陸海軍大臣、総長

サイパン守備部隊に与ふる命令

先に訓示せる所に従ひ 明後七日敵を求めて玉砕せんとす 

〇三三〇以降随時当面の敵を求めて攻撃に当れ

 

 

それではなぜ細部に相違点があるのかというと、おそらく口頭でなされた訓示を複数の人が書き写したからだ。命令文の打電や印刷もできないような戦場では珍しくない話で、ガダルカナル戦史にも出て来る。使者が出る替りに、関係者に集合がかかる。

 

豊田は、この自著の訓示を誰が書き残したのか明記している。訓示文末の「南雲中将」のあとに、(注、高橋市太郎氏=埼玉県入間郡日高町在住の写しに依る)と記されている。巻末の面談相手に高橋氏の名はないが、在住ということは当時ご存命だ。間接的に高橋写本を入手したものか。

 

 

いよいよ追い詰められてきた戦闘の終盤、南雲司令部は島北部のマタンシャの洞窟内にあった。移動するときに、司令部を追って逃げてきた民間人も洞窟のそばに集まっていたらしい。該当箇所を引用する。

 

その中で、従兵助手のサブランは、後にサイパン島の市長になった男である。その近くに、ガラパンで料理屋をしていた高橋市太郎氏がいた。高橋氏は、長官の飾り気のない人柄に惹かれていた。彼は長官が何を書いているのか、じっと見守った。

 

 

サブラン氏は現地採用の従兵として、この少し前から出て来る。彼の甥は本稿下書きの時点で、現職のアメリカ合衆国下院議員。驚いたね。ネットに同議員のサイトがある。高橋氏が見守っていたのは、岩の上に腰かけた南雲中将が、最後の訓示を手帳に書き留めている姿。

 

さすが総大将だけあって、「全島の陸海空の将兵および軍属」に宛てている。豊田書によると、この訓示は斉藤中将と井桁少将の自決の報が届いた後に、海軍の残存将兵を集めて読み上げられた。洞窟の外だったのか、高橋氏もこれを聴き、「タバコの空き箱の裏に写し取り、ポケットにしまった」。

 

 

南雲忠一を主人公とした本や、研究論文などは、他に読んだことが無い。別に避けている訳でもないのだが、私の読書や本の探し方に癖でもあるのだろうか。古書屋のサイトでも余り見かけたことがない。それに山本五十六の書簡や、宇垣纒の日記のような、直筆の資料が大量に残っているわけでもなさそうだ。

 

戦闘における勝利も敗北も、あれだけ劇的だった割に、本人は戦史の中で埋もれているように感じる。一方、豊田穣は一度だけ、南雲忠一に会っており、そのとき好印象を受けた。南東方面で戦場も共にしている。そんな経緯でこれを書いたらしい。

 

 

本書を読んでの私の感想は、南雲の最期は同級生だった角田と同じようであったと思っている。「続ケ」と力強く命令を結んだ軍人が、そのあとで自決の集合場所に向かうとは考えられない。陸軍の戦史叢書(6)より。

 

 

 

(おわり)

 

 

 

カナヘビ  (2024年5月11日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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