婚姻色のアオサギ

 

 

菅野静子著「サイパン島の最期」に、「海軍落下傘部隊長の自決」という章がある。日付は不明だが前後の流れからして、ドンニイ野戦病院に着任して間もなくのことだったらしい。最初にこの題名だけ見たとき、横一特の唐島部隊長のことかと思った。

 

だが今は迷っている。前掲の青木隆氏著「サイパンの海蒼く」のなかで、唐島辰男中佐は、会話内の呼び方も含め隊長ではなく、「司令」と書かれている。彼の下に少なくとも三名の中隊長がいたことも分かる。その中の誰かだろうか。

 

 

その件は後にして、どんなことが起きたのか。夜の診察中、九時ごろ、「担架にのせられて、海軍の将校が運ばれてきた」。担架についてきた三名の部下によると、怪我人は海軍の落下傘部隊の隊長であるという。「足をひどくやられていて、全身血まみれになっていた」。

 

患者が隊長と聞いて、病院側も「うちの隊長」の軍医中佐が出てきて手当した。意識ははっきりしていたようで、くりかえし「自分だけが死ねなかったのは残念です」と言っていた。担架にのせたまま近くに寝かせ、部下の一人が付き添いに残った。

 

 

治療が続き真夜中になったころ、「天皇陛下万歳」という声、「ブスッという音」、「隊長どの」という絶叫が聞こえた。駆けつけてみると、落下傘部隊長のアゴの下からおびただしい血が流れている。拳銃を握っている。頭を貫通しており即死だった。

 

著者は、自分の「兄もこう叫んで立派に死んだのだろう」と思った。うめき声を上げ続けている他の患者も、事態を察したとみえて「一瞬、水を打ったように静かになった」。しばし沈黙していたうちの隊長は、「惜しい軍人を亡くした」と一言。診察に戻った後も、付き添いの部下のすすり泣きの声が聞こえて来た。

 

 

青大将 大物

 

 

出来事は以上である。著者の記憶に残ったのは、兄と重ね合わせたからか。そして後に玉砕命令が出て移動中に敵軍に襲われ、野戦病院の隊長も同じ死に方を選んだのを著者は見ている。彼女は将校ではないから拳銃が無く、手榴弾を選んだが失敗して重傷に終わり捕虜となった。戦後、彼女の体内から18個もの手榴弾の破片が出た。

 

前回と同様、この隊長の名前も本書には出てこない。前掲青木書によると、唐島司令と一中隊長は、6月15日の夜襲突撃で戦死している。もっとも戦死の誤報は少なくなかったようで、齋藤第四十三師団長も大本営に戦死報告が出された後になって、生きていますと修正された。

 

 

しかし同手記によると、後任の中川司令がすぐに着任しているため、唐島司令は戦死したはずだ。戦史叢書の附録も、唐島「少佐」は6月15日まで司令だった旨の記録になっている。

 

もっとも重傷で行方不明になり、その結果、上記の顛末になったという可能性はあるかと思うのだが...。それに複数の部下が残っている以上、「自分だけ」というのは事実と反するとは思うのだが、こういう言葉は時に大勢の同僚・部下を失った責任者から出て来るものだと思う。

 

 

司令という肩書はいかにも海軍だが、落下傘部隊は着地して以降は陸戦隊となるためか、陸軍と同様、中隊長、分隊長がいる。その点は、アメリカ海兵隊と似ている。また唐島部隊の司令副官は、この部隊のことを「大隊」とも呼んでいる。

 

ちなみに、伊藤桂一著「兵隊たちの陸軍史」によると、略して「隊長」と呼ぶことがあるのは中隊長だけで、大隊長、小隊長、分隊長は正式名称どおりに呼ぶ。だが海軍ではどうなのか知らないし、「うちの隊長」も正式には多分「病院長」のはずだ。

 

 

強引に消去法でいくと、二中隊長と三中隊長が有力候補に残るが、勝手に決めるものでもないし、この先には進めない。私が悩んでも何の足しにもならないが、わが伯父が行方不明なので、名前が分からない戦死の逸話を読むと気になって仕方がない。

 

しかし逆に言えば、特にこのサイパン戦以降、誰が何処で戦死したか分からないという戦闘は増え続けてゆくだろうし、そもそも搭乗員や潜水艦の乗組員の戦死は、多くが伯父と同様であろうかと思う。我が家だけが被害者ではない。

 

 

なお、手記の青木兵曹ら生き残りの落下傘部隊は、南部オレアイの夜襲のあと、敵にアスリート飛行場を占領され、日本軍が南部を放棄したため、北上している。最後には北端のバナデル、マッピまで移動した。

 

したがって、隊長が北部ドンニーの野戦病院に担ぎ込まれても不思議ではない。マッピには岬があり、後年、バンザイ・クリフと呼ばれた。著者はここで無数の悲劇を目撃している。はぐれた子供の世話もしたが、食べ物もなく次々と死んでいった。

 

 

拙ブログにおいて、引用箇所を青字またはカッコ書きにし、そして著者名・著作名等を太字で強調しているのは、著作権法の趣旨に従うためでもあるが、こういう資料があるということを、私と同じような探しものをしている方々が少なくないのが分かって来たので、数少ない情報だが選んで提供申し上げている。

 

いつか誰かの役に立つといいなと思う。また、未来の子孫や親戚にも読んでほしい。とはいえ、日本語も言語媒体も急速に変化しているため、ただでさえ長い駄文は敬遠されそうな気がする。一番困るのはアメブロのサービスが終了し、ブログごと消滅するおそれ無きにしも非ず。アメーバさんに未来永劫、頑張っていただくほかない。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

タヌキ 大きさが違うので親子かもしれない。

(2024年4月26日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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