前回の続き。この著作は長編で、後半は米軍捕虜になったことや、軍事法廷に立った話になる。そこまで行くと本ブログの流れから大きく逸れてしまうので、サイパンの戦いが実質終わるところで離れる。それでもあと何回分かの話題がある。

 

彼女を特志看護婦に採用してくれた隊長は、この本の最後のほうで、隊長は戦争の心を持っていなかった、人の心を持っていたと、最大限の献辞で慰霊されている。彼の口癖は、内地に帰ったら、君にいくつでも金鵄勲章をあげよう、というものだった。

 

 

もっとも面接時に、軍隊では何事も隊長の指示に従わなければならないなどと訓示したため、彼女は本当に何でも質問したり、許可を求めたりしてくる。この忙しいのに最終決定者に直接話しかけてくる。

 

ところで本書の「あとがき」に、「人間精神の美しさを、花いっぱいに飾って死んでいった多くの兵隊さんたち」や、一人一人異なる想いを抱く御遺族との交流について語ったあとで、彼女は次のような感慨を書きこんでいる。

 

 

第一に、私は隊長のことを思い浮かべます。長い戦場生活に在りながら、最後まで人間の精神を失わなかった人のように私には思えます。もう戦う力のない将兵や、何も知らない私を助けようとして、隊長はどのように苦悩されたことでしょうか。

 

隊長は軍律に反してまで、彼女を生きて玉砕命令から逃れさせようとした。いったん離脱した彼女は自分の意志で戻っている。しかし、「私はその隊長のお名前を知らないのが残念でたまりません」。当時、彼女も周囲も「隊長殿」としか呼んでいなかった。他の軍医殿や中尉殿の名は遺族のお便りなどで知り得たらしいのだが。

 

 

その後の関係者とのやり取りの中で判明したかもしれないが、私が知らないままというのも落ち着かないので、自分で調べよう。野戦病院というのは施設の名称だけではなく、れっきとした陸軍の部隊名で、「師団野戦病院」などという名称もある。

 

部隊組織なら、組織図に載っているはずだ。戦史叢書の地図の中に、地名ドンニイの下に「31A 43D 物資集積所 後方部隊多数あり」と補記されているものがある。第三十一軍と第四十三師団の兵站基地だったらしく、後方部隊多数の中に野戦病院があっても不思議ではない。

 

 

第三十一軍の戦闘序列には、歩兵でいうと大隊までの大きな組織しか載っていない。他方で第四十三師団の組織図なら、伯父の連隊も含んでいるので何度でも見ているが、師団直結の通信や経理と並んで「野戦病院」があり、長は「深山一孝(医)中佐」と記されている。

 

(医)中佐というのは、たぶん軍医中佐のことだ。ただし、これはこの組織図が作られた時点のものであり(たぶん初代)、また、三浦特志看護婦は「少佐の襟章」をつけていたと書いているので、最終判断を下すにはちょっと弱いか。

 

 

 

次に中日新聞社社会部編「烈日サイパン島」をみる。新聞社だけあって、個人名が多く載っている。この書籍に、第四十三師団の野戦病院はもともとガラパンの街中にあったが、艦砲射撃が始まった6月13日、サイパン神社の裏山洞窟に移転命令が出たとある。

 

これを証言している鈴木四郎次曹長は、うちの伯父貴と同じ第百十八聯隊第三大隊の所属だった。やはり歩一一八は海没のため、組織の体をなさなくなり(例えば糧秣・武器が全部海没)、各部隊に分散配置されたものと思う。随所に散在しているのだ。

 

 

野戦病院はさらに砲撃を避けて、東海岸のドンニイへと6月18日に移転した。鈴木曹長は「はあぶる丸」が雷撃された際に全身やけどを負い、病院送りとなったのだが、ドンニイ野戦病院の衛生状態が余りに悪く、こっそり抜け出した。

 

この野戦病院に「閉鎖命令」が届いたとき、その現場にいた伯父と同じ聯隊で別の大隊(第一)に所属の沢野修一郎兵長が取材に応じ、そのときの様子を回想している。閉鎖命令とは、「重病患者は自決させよ」と同義だった。該当部分を転記する。

 

 

六月二十六日午後のことだった。命令が届いた瞬間、野戦病院長の深山一孝軍医中佐の顔色はさっと変わった。ほかの軍医たちも表情をこわばらせた。

 

この命令が届いたとき、三浦特志看護婦もその場におり、彼女の記憶では隊長は「玉砕命令」だと言った。これに対する彼女の反応は、ほんの少し前までサイパン島での生活がどのようなものだったか想像するのに役立つ。「玉砕って何ですか」と訊かれ、隊長はしばし返事に困っている。

 

 

(おわり)

 

 

 

クロツラヘラサギの幼鳥(くちばしの色が薄い)

(2024年4月26日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

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