菅野静子著「サイパンの最期」を読んでいるうちに、背後の書棚にあるマザー・テレサの伝記の一部を思い出した。彼女は修道院から出て、カルカッタのスラムに立つ。取り囲む子供に教えようにも教室も黒板もない。小枝を拾い、道に字を書き始めた。

 

マザー・テレサは、自分の活動は慈善事業ではないと言っていた。死に行く人々が尊厳を持てるよう奉仕する。

 

 

著者の三浦静子(旧姓)は、洞窟内の負傷した兵隊さんたちに対して、自分が先に野戦病院に行って準備して待っているから、必ずドンニーに来てと一人一人に伝えて回り、止めようとする人たちを振り切って暗くなった道をたどり始めた。

 

彼女は16歳になるまで、明かりのないジャングルの一軒家で育った。暗くても見える。山歩きは慣れたもので、洞窟も怖くない。途中でガラパンから早々に逃げて来た近所の人たちと会う。そこで親友や同僚が死んだことを知らされた。

 

 

みんな彼女を制止しようとする。だが街から逃げるのが早かった人たちは、今どれほど悲惨な様子になっているか知らず、安心している様子で「切迫感がない」。彼女はその林間の避難所を出て山を降りた。だが、無事な人ばかりではなかった。

 

山の出口のところで、子供を背負った女の人が木の枝にぶら下がっていた。子は目を見開いたままだった。「それから後の数日間に、数えきれないほどの首吊りを見た。奇妙なことには山の出入口に、それが多かった。ほとんど子供を連れた女のひとばかりで、男の縊死体は全然見なかった。兵隊さんでは一人見たけれども...」。

 

 

 

道中ガラパンで知り合いになっていた「ほまれ部隊」(第四十三師団)のひとたちと出会った。急いでいる用件を告げると、将校が「ウチの主計長も重傷で野戦病院へ行っている。途中危ないから、送ってやれ」と部下をつけてくれた。この陸軍さんたちも、のちに彼女の患者になるその主計長も、生きて終戦を迎えることはなかった。

 

道を教えられた山に着く。疎林の中の山道を登る。最初は暗かったが、細い月が出た。それらしき所に着くと、あっと叫んで立ち止まってしまった。「おびただしい人間の群れが樹間の地べたに寝ている。みんな負傷兵だ」。

 

 

これまでの読書の範囲内で得た程度の知識だが、陸の戦場ではまず第一線に近いところに繃帯所がある。臨時の仮繃帯所というのもある。原則そこには軍医はおらず、衛生兵が、それこそ繃帯レベルの応急措置をする。

 

二次施設が野戦病院で、ここに軍医がおり、診断治療を行う。立派な病院の建物があるわけではない。洞窟や、ニッパ椰子で葺いただけの吹き抜けの小屋。天幕があればましなほう。ここで手術、入院となると、おそらく戦傷者と呼ばれるのだろう。治るまで員数外だ。その上の兵站病院となると、ラバウルのような基地にある。

 

 

彼女は本部の場所を教えてもらい、びっくりしてこちらを見ている歩哨に、「民間の者ですが、隊長さんにお目にかかりたいのですけど...」と案内を乞うた。軍隊の施設は民間人を寄せ付けない。「何の用ですか」と訊かれ、「お手伝いをしたいと思ってきました」と応じた。看護婦を志願して参りましたと付け足す。

 

歩哨は不思議な顔をしていたが、ともあれ取次はしてくれた。うめき声や悪臭に気を取られていたところ、いつの間にか隊長が自分の前に立って様子を見ている。少佐の襟章をつけていた。

 

 

案の定、最初は断られた。ありがたいけど、ここは女には無理だし、軍隊に民間の人を入れるわけにはいかない。続いてご家族もいるだろうと訊かれ、みんな死んだとあふれる涙で答えると、隊長はこの一言に、「ひどく動かされたようだった」。単に同情しただけではあるまい。この先、この娘は一人で生きていかないとならない。

 

隊長は他の軍人と相談し、やがて戻ると自分の腕から赤十字の腕章を外し、彼女の細い腕に巻き付けて、「あんたは今から、この野戦病院の特志看護婦だよ」と云い、森中尉という傍らにいた将校が、近くにあった鉄兜を彼女の頭に乗せてくれた。

 

 

軍隊の制度名に「特」が就く場合、大抵は「特別」の略であり、この場合は特別志願なのだろう。正式な職名かどうか知らない。それに軍の「特別」は「特上」ということはまずなくて、「例外的に認める」という意味合いが多いように感じる。

 

採用なって早速、この晩から手術に参加する。最初の手術は懐中電灯で照らす係だったが、次は切開、その次は摘出。ノコギリで脚の骨を切断するのまで手伝わされた。最後の患者が終わったときには夜が明けていた。地べたに寝ている負傷者は、千名を超えているようだった。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

ビヨウヤナギ (2024年5月20日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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