サルスベリの季節

 

 

空挺団の唐島部隊に関しては、すでに青木隆氏著「サイパンの海蒼く」を参照して今年1月に連載を書いているのだが、その後もう一人の方の戦後証言を本とネットで読んだので追記する。その前にしばらく前の見学の感想。

 

上記の連載のすぐ後、千葉の習志野原にある自衛隊の「第一空挺団」に、ブログ師匠にお連れいただいた。パラシュート降下の訓練を見て来たのではなく(家族はそれを期待していたらしい)、展示施設「空挺館」の一般公開の見学。

 

 

  

 

古いものから最近のものまで落下傘の本物を見る機会は初めてのこと。写真や説明文の展示も多く、かつて「義烈空挺団」という名の特殊部隊(すでに特攻の時代)があり、サイパンと沖縄で作戦計画があったというのを初めて知った。

 

見学中、OBと思しき方が説明してくださったので助かった。上記サイパンの作戦は、近くの硫黄島の戦局が悪化したため中止になった由。習志野といえば陸軍の騎兵隊の発祥地でもある。信さん秋山好古やバロン西の写真があった。

 

 

さて、彼らの後輩の唐島部隊(横一特)は、前回の連合軍サイパン上陸の初日、昭和十六年(1944年)6月15日の夜に、島中央部の東海岸にあるガラパン周辺から、島南部に進出して夜襲に加わるよう、上位組織の海軍第五根拠地隊から命令を受けた。

 

この日の夜襲部隊は、中日新聞社社会部編「烈日サイパン島」によると、師団直結の歩兵第十八連隊(豊橋)第一大隊、米軍が上陸したチャランカノアやオレアイの守備に当たっていた歩兵第百三十六聯隊(岐阜)第三大隊、戦車第九連隊。

 

イトトンボ

 

 

新聞の取材に応じたのは、その文中に何度か出て来る茨城県出身の生井豊二等兵曹だろう。午後4時、民間人が手を振って見送る中を出発。夜襲の獲物は小銃、拳銃、折り畳み式の槍。落下傘はない。上空で彼我の航空機が空中戦をしている。

 

密林に着き、白襷をかけた。合言葉は「海」(かい)と「陸」。いざ夜討というのに、敵が撃ちまくる照明弾で空が明るい。敵監視兵はすでに唐島部隊の行動を察知していたらしい。海兵隊が戦車と砲を並べて待ち構えていた。艦砲弾も降ってくる。

 

 

ガラパンより更に遠くのマタンシャから来るはずの歩一八が、突撃時刻の午後九時になっても来ない。すでに十六日の午前三時になった。唐島部隊は喇叭の合図で突撃を開始した。ちょうど全体に夜襲命令が出たそうで、南側では歩一三六が前進した。

 

部隊は銃と槍に加えて、各自がその形状から「亀の子」と呼ばれていた破甲爆雷を携帯している。これを敵戦車に張り付けたり、投げつけたりする。敵味方の戦車同士が混乱の中で撃ち合っていた。

 

 

生井二等兵曹は、亀の子爆雷を敵戦車に投げつけたが爆破せず、相手の戦車が機銃を撃って来た。見れば近くのトーチカの銃眼が敵陣のほうを向いている。幸い味方の陣地だが、飛び込んでみると死体の山。

 

軽機関銃を取り上げて撃ちまくったが、やがて頭に何かが当たり、脳天を殴られたようなショックで気を失った。後に息を吹き返し、陸軍兵に助けてもらった。感謝したが、名前を訊くのを忘れた。夜襲は失敗に終わった。七百遺体を残し撤退。

 

ネットに、「戦場体験史料館」という電子版記録がある。うまくリンクを貼れないが「生井豊さん」で検索してみてください。証言は細部が異なるが、同一人物で間違いなかろう。戦争体験はすさまじいが、どこか儚くユーモラスでもある。

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

空と風  (2024年4月28日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

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