お隣のマンション、排水溝でさえずるスズメ

 

 

時期にしろ場所にしろ、軍部の希望的観測は悪いほうに外れ、敵は大挙してマリアナ諸島に来た。この戦争は苦しいと思った人も当時多くいたのではないか。日米両国間の戦力、国力の差だけではない。インパール作戦は難航し、翌月7月3日に中止命令が出る。ノルマンディ上陸作戦のD-Dayは6月6日、もう始まっている。旗色悪し。

 

いずれ行われるであろう和平交渉において、不利な条件交渉から逃れるためには、こちらも出来るだけ有利に事を運んでおかなければならない。戦闘にしろ外交にしろ、もっと上手くできなかったものか。周知のとおり和平交渉の仲人役に期待していたのはソ連だった。結果から見て、先の大戦における我が国の最大級の失策だった。

 

 

「あ」作戦の準備発令は昭和十九年(1944年)の6月13日、渾作戦もこの日で中止。連合艦隊は機動部隊の決戦海面をマリアナ沖と想定し、タウイタウイを出てギマラスに向かった。一方で大本営海軍部はなお慎重で、作戦発令は15日になった。

 

この二日分の判断の遅れが原因で、マリアナ諸島の日本軍の戦力(兵員、武器弾薬、施設・設備などなど)には、どれほどの損害が出たのだろう。数字は知らないが、甚大なものだったはずだ。サイパンの陸軍では、第三十一軍司令官がパラオに出張中。

 

 

軍令部の判断が遅くなったのは、燃料不足を懸念してのことだったというのが定説のようで(後述する)、確かに例えば、我が機動部隊がマリアナに向かったところ、やっぱり敵がパラオに来たので戻る、というような余裕はないのだろう。だから、敵の方からパラオに来てもらいたかった。

 

だがその懐事情は連合艦隊とて軍令部と同様に苦しく、判断の時期に差が出たことについては、今回限りだが考えてみる。最初に海軍の戦史叢書(6)を見る。6月12日、サイパンでは前日に空襲が始まり、翌日に艦砲射撃が始まる日。

 

 

この日ラバウルの零戦(二機発進したが一機は途中から帰投)は、アドミラルチー諸島および同周辺を偵察し(一五三〇~一六一五)、空母六、巡洋艦二十五、駆逐艦十、輸送船九〇の大部隊が在泊又は同方面行動中であることを視認し報告している。

 

この報告は陸軍の戦史叢書(6)にも出ており、輸送船九〇隻となると、「四〇~五〇トン、三コ師団の輸送可能」という規模である由。同日の夕方、前回のとおりテニアン島の偵察部隊は周辺海域に敵艦隊を見た。ただし巡洋艦と駆逐艦のみ。まだ輸送船団は見つかっていない。

 

 

翌6月13日、サイパンの中部太平洋方面艦隊司令部は、朝5時にテニアン、6時45分にはサイパンの視界内に米水上部隊の出現を確認し、〇九三八(原文カタカナ)、「敵は明日または明後日を期し、当方面に上陸作戦を企図しありと判断す」と、連合艦隊司令部および大本営に打電した。

 

この直後に艦砲射撃および駆逐艦の掃海活動が始まった。続いて第一航空艦隊等からの緊急電が9件も並んでおり、「一六三〇 サイパンの砲撃を止む 被害甚大」。これを受けた大本営と連合艦隊の反応が、海軍の戦史叢書に載っている。冒頭部分の主語は大本営。

 

 

連合艦隊の「決戦用意」の発令についても、燃料の関係もあり慎重を期して必ずしも賛成ではなかった。山本軍令部第一課長は「決戦用意の発令は連合艦隊司令部が強行した」と回想しており、後述の連合艦隊の各発令情況からもうかがえるところである。

 

 

 

「後述の連合艦隊発令」の中には、「決戦用意」の前だというのに、たとえば「第二攻撃集団デング病搭乗員は第三攻撃集団の余剰搭乗員を以て臨時補充す」といったふうで、もはやGFは臨戦態勢。

 

そして、戦史叢書は大本営の判断について、次の一件も引用している。陸軍の東條総長による「米軍の企図判断」に関する上奏の一部を、海軍の戦史叢書が転記している。以下、原文はカタカナ。適宜句読点を入れる。

 

 

大本営は米軍のマリアナ空襲後の企図については、まだ迷っている。特にアドミラルチーの大輸送船団の所在が、判断に影響しているものと推測される。このことは十四日になっても同様で、東條総長は十四日の上奏の中で、

 

『今後における敵の企図に関しましては、欧州方面の戦況と関連を持っておりましてな予断を許しませんが、マリアナ方面の敵機動部隊と、ロレンガウ附近に集中中の敵部隊とは、相互に関連を有するものと判断され、相策応しカロリン方面の攻略を企図する産大なり判断せられますが、状況によりましては、マリアナ方面の攻略またはヘルビング海の周辺要城の早期攻略を企図する予測をせねばならぬと考えます』と述べている。

 

 

地名について、上記ロレンガウとは、アドミラルティ諸島マヌス島の主要都市。ヘルビング海とは、豪北のビアク島が浮かんでいる湾。この奏上、私の解釈では、連合軍はノルマンディ作戦と策応させ、アドミラルティからカロリンに攻略部隊を送る公算大。でも、もしかするとマリアナか、ビアクかもしれない。

 

翌6月15日、サイパンは晴、日出は〇四四五であったと海軍の戦史叢書にある。「夜明けとともに、米海軍艦艇は砲撃を開始し、第2、第4海兵師団を乗せた輸送船は、チャランカノア沖約一万五千米に進入した」。

 

陸軍の戦史叢書も、第一航空艦隊が日出の一分前、〇四四四に発信した電信を記録している。「サイパン沖合視界に大型輸送船約十五隻見ゆ」。その二分後に「〇四三〇輸送船約二〇隻現れ、サイパン西岸に揚陸開始」。大本営陸海軍部は出遅れた。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

藤棚  (2024年4月28日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

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