上野にある国立国会図書館の支部「国際子ども図書館」前のハナミズキ

 

 

マリアナ沖海戦の連載を始める前は、マリアナ諸島への敵上陸作戦の前後まで、陸軍の戦史叢書や関連回想記などを読んでいたが中断して海戦に移った。今回から陸戦をどう再開するか迷うところだが、最も安直な道、前回と関連するものを選ぶ。

 

去年の12月上旬で読書が途切れていた雑誌「丸」別冊収録の横森直行氏著「第121空偵察隊テニアンに消ゆ」。第1693回の「香取の雉部隊」で取り上げた、第一航空艦隊の偵察隊。角田司令長官は昭和十九年(1944年)2月20日にテニアン島に進出した。

 

 

直後の同23日に、マリアナ諸島への第一次空襲が始まり、その後始末が司令部以下の初仕事のようになった。第二第三の空港建設が行われていたが、シャベルと鋤しかない。島に13,200人ほど在住していた民間人も総動員。

 

上官の飛行隊長は、千早猛彦大尉。千早隊長や長嶺分隊長は、5月から6月にかけて、メジュロほかマーシャル群島に挺身斥候を行った。6月11日、敵襲の警報が鳴る。分隊長は著者に「飛行長、例のやつらがとうとう来やがった」と言ったそうだ。

 

 

例のやつらとは、6月9日のメジュロ偵察時に、同環礁から姿を消したスプルーアンスの艦隊のことだ。千早隊長は「分隊長、行くでえ」と言って愛機彩雲に乗り、分隊長は彗星に乗って、百機近い敵戦闘機軍に向かっていった。両者、未帰還となる。

 

このころのテニアン基地について、千早正隆が防空・通信能力がなく、航空機が激減していた有様と記し、著者はひとこと「空家同然」と書いている。しかし、二月と同様の空襲とみなし、「しかしまさか、これが玉砕戦の開幕であるとは、誰も思わなかった」。

 

 

 

 

翌12日の空襲で木造の宿舎も、整備中の飛行機も焼かれた。その日の夕方、「艦隊識を得意とする」著者は、迎えにきた司令部の車に乗せられ、テニアンで一番高いラソ山に連れていかれ、電探の塔に登った。水平線上に艦隊が見える。

 

「眼鏡を手にして海上を見渡すと、足がふるえた。どうみても敵艦隊である」。アイオワ型戦艦三隻、続いて重巡三隻。サイパンとテニアンの北海上を過ぎてゆく戦艦の艦砲が全部こちらを向いている。敵ながらあっぱれなデモンストレーションだった。

 

 

この12日の夕、司令部は建物から書類を持ち出して燃やした。「断末魔の様相であった」。明けて13日の朝、猛烈な艦砲射撃が始まった。「そのうちに、艦砲はサイパン島に集中された。敵の上陸は必至である」。

 

大本営には、こういう情報は届かなかったのだろうか。戦史叢書は、あちこちに資料がない資料がないと書いており、この件も詳細が分からない。少なくとも連合艦隊司令部は、13日に「渾作戦」を中止しているので、敵マリアナ来攻と判断したはずだ。

 

 

偵察隊の一二一空は陸戦の武器を持たない。飛行場の西側に陣取り、「爆弾を引っぱってきて、いよいよ敵が来たならば、ハンマーで信管をたたき、ともに吹っ飛ぶ用意をした」。これでは人間地雷のようなものだ。

 

司令部にいると狙われるので、飛行場の暗渠にひそんだ。上空を軽飛行機がほとんど休みなく見張っている。小銃でも当りそうな低空を飛んだとき、陸軍兵が怒って射撃したところ、即座にお返しの艦砲射撃に遭い大打撃を受けた。

 

「六月十九日、期待していた連合艦隊はマリアナ沖海戦で完敗し、士気はまったく衰えた」。手記はこのあと、しばらく先の七月に飛ぶ。これはまた後に参照することにして、この先は主として陸軍の戦史叢書の記載順に従う。

 

 

最後に一つ、忘れ物を追記する。第1761回で米軍の航空母艦の艦名を15隻書き並べた。この顔ぶれは、レイテ沖海戦にも参加する。少し前まで私は大変な勘違いをしておって、ハルゼーとスプルーアンスは別々の艦隊を率いているのだと思っていた。

 

実際には司令部のメンバーと艦隊の名称が変わるだけで、船は一緒。わが海軍は働きっぱなしであり、先方は交互に休み。これは敵さんのパイロットや海兵隊員も同様であり、個々人にのしかかる心身の負担、疲労の蓄積度が大きく異なる。スペースシャトル「チャレンジャー」の事故原因は睡眠不足と過労によるものだった。

 

 

 

(おわり)

 

 

 

不忍池のアヤメ  (2024年4月27日撮影)

 

 

 

 

 

 

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