天然ウナギ

 

 

前回の続き。マリアナ沖海戦の最終回。前掲千早書は、当初「あ」号作戦において、ビアク島に敵が上陸しても、現地守備部隊に対応を任せる方針だったことに触れている。しかし、連合艦隊は実際にビアクに連合軍が上陸を始めると作戦を変更した。

 

とはいえ航空母艦は参戦していない。潜水艦部隊も向かっていない。第一次も第二次も敵を発見して撤退した。最終決戦に向けて兵力を温存したものだろうか。そのかわり千早によると、次のような展開になった。

 

 

ビアク方面の作戦を強化するため、合計百五十余機の兵力をとっておきの第一航空艦隊から引き抜いて、前後三回にわたって西部ニューギニアの基地に投入した。

(中略)

 

それは敵機との戦いよりも、不完全な基地の施設と悪疫との戦いであった。初めのうちこそビアク島の守備部隊に呼応するようなイキのよい攻撃をすることが出来たが、間もなく戦力は急激に衰えていった。

 

 

基地航空部隊は機動部隊と異なり、陸兵と同様、地面で暮らす。古い本に「瘴癘」という物々しい言葉が出て来る。熱帯・亜熱帯の悪疫のことらしいが、あまり一般向けの戦史には登場しない。想像だけで物を言うが、実際の被害は相当のものではなかったか。ときどき赤痢の話題が出てくる。隔離される。

 

本論の最後に「なぜそれほど惨敗したか」という敗因分析がある。「両軍が正々堂々の陣を張ってわたりあい、一方の側が何らの戦果もあげることができずに、このように一方的に惨敗した例は、不幸にして、あまりその例がない」。

 

 

著者はここでアメリカ側の「モリソン博士やその他の戦史研究家」による考察に言及している。それによると、アウトレンジの戦法も悪くなく、零戦の性能も健在であり、索敵も活発だった。だが「日本側の欠陥の根本は、実に、そのチームワークの欠如であった」。

 

その代表例として著者は、「日本のチームワークの欠如は、日本海軍が『あ』号作戦の根本の考え方としていたその基地航空部隊(第一航空艦隊)と第一機動艦隊の協同作戦の目を蔽いたくなるような経過に、これ以上なく悲痛に実証されている」。

 

 

 

 

「理由はいろいろあるが」と続く。その一つは既述とおり「第一航空艦隊の展開した各航空基地の展開した防衛体勢およびその施設、さらにその通信施設が、全くといってよいほど不備であったことである」。もう一つ、日本軍は自ら各個撃破の機会を敵に与えた。

 

機動部隊が比国からマリアナに進むまで、少なくとも四日を要する。この間、マリアナの基地航空部隊は単独で立ち向かわなければならなかった。そして、それだけではなかった。昭和十九年(1944年)6月9日、著者の実弟、千早大尉の偵察の結果、米艦隊はメジュロから消えていた。決戦を想定しているパラオ方面に来るかどうか。

 

 

6月11日、ミッチャーの機動艦隊がマリアナ諸島の空襲を開始。この段階で、大本営も連合艦隊も、まだマリアナへの上陸作戦なのか否かについては様子見だった。6月13日、艦砲射撃が始まり、渾作戦は中止、GFは「あ号作戦決戦用意」を発令した。

 

6月15日、米軍のサイパン上陸作戦が始まり、ここに至って連合艦隊司令長官は「あ号作戦決戦発動」を命じ、艦隊主力がギマラスから発進した。四日後の6月19日、海戦が始まる。この間、マリアナの一航艦は叩かれ続けた。

 

 

一方で著者は、角田覚治中将が、「あ」号作戦発動前夜にマリアナおよびカロリンの基地航空機が百三十余機に過ぎなくなっていることや、その原因たる基地の通信・防御の諸施設が未完成であったことを報告、通報していないことを強調している。「全軍の士気を落としたくないと考えたであろうことは、察するに余りある」。

 

死者に鞭打つつもりはさらさらないが、角田長官はあまりにも責任感の感情が強すぎたのではないだろうか。この海戦を回顧してみるとき、そう思えてならない。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

水飲み場のタヌキ 葛西臨海公園 (2024年5月12日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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