あと二回の記事をマリアナ沖海戦に充て、そのあと敵上陸時点で中断しているマリアナ諸島の戦いに戻る予定。今回次回は海軍部隊といえど、テニアン島で戦死した記録が残る伯父の戦争に関連し、第一航空艦隊(長、角田覚治中将)を題材にする。

 

前回の記事以外にも、サイパン上陸の直前までマリアナの守備(防空や通信など)は未整備であったと何度も読んだ。その理由のうち、前掲千早書も戦史叢書も挙げているように、トラック基地に重点を置いていた海軍の方針について考えてみる。

 

 

戦史叢書(12)「マリアナ沖海戦」は、クェゼリンの失陥から始まる。昭和十九年(1944年)1月30日に米軍が上陸開始。「二月六日玉砕」。「一挙にマーシャルの中枢基地であるケぜリンを攻略されたことは大本営等にとって大なる衝撃であった」。

 

「このことは当時の作戦指導からみて明かに推測されるところである」。日本軍は慌てた。どの戦力をどこに向けるか、戦史叢書にメモが並んでいる。例えば二月二日ごろ軍令部から出ている連絡が載っている。原文カタカナ、漢数字。

 

3月中旬にはマリアナ、カロリンに来るかもしれぬ。サイパン、グァム、テニアンに早く出されたく。6月を目標に全力展開す。マリアナの防備に全力展開す。

 

 

それまでトラック環礁を対米戦の本拠地として、ラバウルやマーシャルの軍備強化を継続していた海軍だったが、いきなり敵が目の前に来た。以下、復習すると、2月10日、連合艦隊司令部は「武蔵」に乗りトラック島を撤退し、横須賀に向かった。

 

移動途上の2月12日、GF司令部は中央に対し、中部太平洋の決戦はカロリン(トラックを含む)またはマリアナという判断をしめしている。日本軍の対米戦略は大きく変わった。連合艦隊は南方に集結し、中部太平洋のいずこかで決戦を行う。

 

 

  

オオヨシキリ

 

 

この2月は多忙であった。後述するが2月15日、それまで大本営直轄だった第一航空艦隊は連合艦隊の隷下に移った。同22日、マリアナへの人員物資輸送のため船舶需要が逼迫したのが引き金となり、軍政と軍令が対立、挙句に大臣と総長が兼務になった。

 

2月25日、陸海軍中央協定。海軍中部太平洋艦隊・陸軍第三十一軍の創設決定、司令部はいずれもサイパン。2月27日、南方に移動しつつあった連合艦隊主力の集結地は第一の泊地候補がパラオ、第二はこれが初出だと思うがギマラスとタウイタウイ。

 

 

上記の第一航空艦隊は、昭和十八年(1943年)7月1日に発足した。初代司令長官は角田中将。「その用法は、決戦遂行能力を擁する基地機動航空部隊として、急速な移動集中により随所、随時に圧倒的優勢を獲得する事を目的とした」。

 

そして「錬成期間を一ヵ年と予定し、この間大本営直轄部隊として温存する」。ただし、設立に先立つ奏上文を読むと、「増勢途上におきまして緊急なる場合には、もちろん作戦に使用する所存でございます」と先行きをほのめかしている。

 

 

 

案の定、角田部隊は上記2月15日に聯合艦隊の隷下となり、直後の17日にトラックに対する連合軍の大空襲が始まると、急きょ内地で増勢中の一航艦は、中部太平洋の航空基地に順次送られていった。

 

そして先発部隊が着任して間もなく、2月23日にマリアナ諸島空襲が始まる。この先は千早正隆著「戦果ゼロ・マリアナ沖海戦」の該当箇所を引用する。著者の主な論点は搭乗員の練度云々の前に、「作戦の拙劣と基地の脆弱」を大きな敗因としている。

 

 

事態は逼迫していた。第一航空艦隊の錬成はまだ完了していなかったが、ついに出動を命じられた。そしてその中攻部隊を中心とする先発部隊がまだ防備の完成していないサイパン、テニアン及びグアムの基地に翼を休めるや否や、第一の不運がふりかかってきた。

 

それは同部隊の進出を待ち伏せたかのように、敵の機動部隊の攻撃に見舞われたことであった。二月二十二日、敵の接近を知った同部隊は、その日の夜四回にわたって夜間雷撃をしかけたが、遺憾ながら成果はなかった。攻撃に向かった航空機のうち、四十二機が未帰還となった。

 

 

敵機動部隊はそのまま翌23日にマリアナ諸島を空襲してきた。ほとんどが小兵力の戦闘機しか残っていない基地航空部隊は、八十三機が地上で叩かれて破壊され、残ったのはわずかに十数機。米側の損害は6機。

 

かつて、米軍は如何にしてサイパンの地図を手に入れたのだろうと書いたが、千早書によると、このとき「写真偵察」を行った由。これで地形図どころか、防空・通信の能力不足まで伝わり、10月1日の予定だった進行期日が6月15日に繰り上がったとある。これを第一航空艦隊の第一の不運とすれば、第二の不運は渾作戦だった。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

上野不忍池のカキツバタ  (2024年5月8日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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