前回の続きで前掲千早書の二番目の項目は、「おそかったマリアナアの防備」。この件は他の史料を使って何度か話題にしているのだが、本書は具体的な材料と断罪的な表現をもって、その遅れを強調している。

 

その前に一つ、寄り道。歴史の"if"を語るのは楽しい。言いたい放題でも責任を問われることはない。ところで、ある出来事が「もしも起きなかったら」という仮定法過去の論法を使うと、その出来事が原因で起きたその後の全てが因果関係を失って宙に浮く。次々と「もしも」を使うことになり、退屈な話になる。

 

 

それを承知で申し上げると、もしも海軍乙事件が起きなかったら、すなわち悪天候に遭わず、古賀長官機・福留参謀長機が当初計画どおり、無事にパラオからダバオに着いたとしたなら、どうなったか。昭和十九年(1944年)の3月末だった。

 

連合艦隊司令部一行は、ダバオで待機させていた先導機とともに、サイパンに進出予定だった。もしもパラオ大空襲にも拘わらず、その予定どおりに事が進んでいたら、連合艦隊の主力が決戦時にはサイパン泊地に進出し、隣島テニアンの角田基地航空部隊と併せ、強力な国防態勢を敷ける。「大鳳」の進水が4月7日。機は熟す。

 

 

そうなるとマリアナ沖海戦は、敵さんの侵攻速度が同じなら、マリアナ諸島の東側で、現実よりも早く起る。夢物語もこのくらいにしておかないと、石油はどうするというような反論が来るので止める。それに、致命的だったのは本論の「マリアナの防備」の遅れだった。千早書より。

 

マリアナ列島を中心とする海域で敵の艦隊を迎えて決戦をいどむという日本海軍の多年の戦略思想にも拘わらず、それが、国防の要線として、正式に取り上げられるようになったのは、実に昭和十八年九月になってからであった。それまでは、戦局の中空地帯として無防備のまま放置されていた。

 

 

 

 

著者はこれに続き、実例を挙げている。いわゆる絶対国防圏の制定の時点で、サイパンとテニアンには飛行場が各一つあるだけだった。「防御砲火としては高角砲が数門というみじめさだった。同方面の陸軍守備兵力は皆無だった」。

 

この国防圏の議論において、マリアナの防衛戦を主張したのは陸軍だった。そのときなおトラックを根拠地としてあらゆる作戦を遂行中の海軍は、マリアナこそがその生命線であり、その守備の担当であったにも拘わらず、なかなか耳を貸そうとしなかったと手厳しい。その続きの段落を引用する。

 

 

海軍がマリアナ列島線の強化に本腰を入れ出したのは、実に実に、昭和十九年になってからである。これは結果から見て、どんなに内輪に見積もっても、一ヵ月以上おそかったといわなければならなかった。

 

最初に読んだとき、「一ヵ月」とはえらく細かいなと思った。千早によると米側の記録によれば、十九年の年明けごろ、潜水艦の動きが俄かに活発になった。「それまで欠陥のあった魚雷の起爆装置を改善した」ためである。

 

 

このため、昭和十八年末まで十五万トンどまりだった日本の月間船舶損失量が、十九年一月に二十九万トン余りに飛躍した。このあとも、三月・四月を除いて二十万トンを超え続けた。

 

ちょうどそのころ、陸軍第三十一軍の輸送計画が始まっている。「安芸丸」「三池丸」「崎戸丸」等の優秀船が、兵員・武器弾薬を満載したまま沈んでいった。大本営の計画では七月末ごろに防衛態勢を概成できるはずだったが、遅かった。

 

 

警報、防空の設備が充分ではなかった。防空火器の弾薬不足は深刻で、高射砲も二十五粍機銃も、「約十分間の射撃を許容するにすぎない」。このような対空防備の手薄な航空基地に、航空機を集中させることはかえって危険だったと著者は指摘する。

 

奇襲が成功するか、制空権を奪いとれば、陸上に並んだ敵機を銃爆撃で破壊するのは空中戦と比べ、はるかに効率的だし、攻め手のリスクも小さい。日本はそれを真珠湾でやり、この年二月にトラックとマリアナで、やられたばかりだった。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

盛者必衰の理をあらわす  (2024年4月1日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

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