夕暮れ時の東京タワー

 

 

前回読み始めた坂本金美氏著「中部太平洋における潜水艦作戦」によると、著者が呂四一潜の艦長に就任したとき、「集まってきた乗員は若い兵が多く、潜水艦経験者は少ない」状況で、士官も経歴が浅く、彼らの育成に気構えと工夫を要した。

 

海軍には潜水学校というのがあった。かつてこの潜水学校長の意見具申が、上層部の不興をかったのを話題にしている。潜水艦という如何にも特殊技能が要りそうな兵器の要員育成や兵力の用法に関し、海軍はどれだけ力を尽くしたのだろうか。

 

 

手記の最後で著者は、潜水艦の用法について「アメリカ側のほうが効果的であったことは否定できない」と結んでいる。まして「対潜能力」(敵潜を破壊する能力)については、「格段の相違」があった。タウイタウイ以降だけでも、多数の駆逐艦、航空母艦が犠牲になったのは見てきた通り。

 

前掲千早書によると、「『あ』号作戦に使用された駆逐艦三十五隻のうち、実に十七隻の多きが再び基地に帰らなかった」とある。その続きにマリアナ沖海戦に関する、米戦史家モリソンのわが潜水艦作戦についての批判が載っている。

 

アドミラルティ島沖の哨戒線などは、希望的な観測に基づく拙策というべきで、さもなければ、決戦海面で使用することができたであろう。

 

 

ガダルカナルの戦いのころ、ソロモン諸島南東沖で敵空母「サラトガ」を雷撃した伊二六潜の横田稔艦長は、乗艦を伊四十四潜に代えた後、上記アドミラルティ沖に配置された。僚艦を次々と沈められ、対潜能力の格段の相違を味わう羽目になった。

 

佐藤和正「艦長たちの太平洋戦争 続編」によると、駆逐艦やら大型機やらに追い詰められ、艦は破損して潜水できず、横田艦長は敵機に向けて拳銃を構えた。「飛行機にピストルを撃っても、しょうがないんですけれども」と回想している。

 

 

このアドミラルティ沖の哨戒線は、「あ」号作戦で定められらた散開線だが、ただし当初計画がことさら酷く、議論の結果、決戦前月の五月下旬になって修正された。さらに六月には、その配置も変更になり、マリアナ諸島の東側に集中した。

 

先を急ぎ過ぎたので、「あ」号作戦における先遣部隊の任務を整理すべく頑張る。坂本元艦長が引用している高木第六艦隊司令長官の連合艦隊司令部に対する意見具申に

よれば、先遣部隊潜水艦の「あ」号作戦任務は「遊撃」「龍巻」「輸送」の三作戦がある。

 

 

ただでさえ「過少なる潜水艦兵力をいよいよ分散、いわゆる二兎、三兎を追うの不徹底に終わるべし」という高木司令長官の具申内容だったが、この意見は当初、採用されなかった。少し補足が要る。

 

「邀撃」とは後の回でも触れるが、そもそも「あ」号作戦の構想そのものであり、すなわち全兵力を以て敵艦隊を覆滅する作戦であって、潜水艦も当然その兵力の一角(特に哨戒)を占める。高木司令官は、邀撃に集中すべきであるとの意見だった。

 

 

ところが、「龍巻」と「輸送」もやれという。今回は先に後者の輸送についてまとめ、次回に「龍巻」を取り上げる。絶対的国防圏を設定するにあたり、最終的には陸軍が主張するマリアナの線で決まったのだが、海軍はトラックに固執した。

 

第六艦隊は引き続きトラック基地に司令部が置かれ、ニューギニアやマーシャル方面への輸送任務が課されていた。その兵力を用いて、同時期に「あ」号作戦における哨戒も任ずるのだから、モリソンの指摘しているアドミラルティ沖あたりに哨戒線を引くことになったのだろう。

 

 

 

五月中旬、南東方面に対する輸送計画とうとう中止になった。その任務にあたっていた伊十六潜および伊一七六潜がいずれも未帰還になったからだ。潜水艦隊も南東方面も悲惨である。そして、6月11日に連合軍によるサイパン上陸開始を迎えた。

 

この時点では、日本海軍はまだマリアナに対する攻撃は、きっと部分的、一時的なものであり、決戦海面はこちらの希望どおりパラオ・西カロリン方面になるとの観測があった。その希望的観測も13日に始まったサイパン島への艦砲射撃で吹き飛ばされ、同日、連合艦隊は「あ」号作戦決戦用意を発令する。

 

 

「あ」号作戦が豊田新長官の発令とともに5月3日に発表された時点では、まだ「龍巻」(奇襲作戦)の任務が入っていたが、決戦用意の時点ではもう中止になっている。このとき「龍巻」の計画立案のため、第六艦隊の高木長官は一時、トラックから内地に戻っていた。

 

中止決定後に長官は司令部を引き連れてサイパンに進出したのだが、そのサイパンが敵に包囲され、6月15日、島上の長官は指揮が困難となって、現場海域にいる隷下の第七潜水部隊指揮官に、主力の第一および第七潜水部隊の指揮を執るよう命じた。

 

 

6月16日、先遣部隊はアドミラルティ沖の哨戒線を西に移設し、マリアナ諸島の東側および南側に配置した。ここに至っても、連合艦隊司令部は「機動艦隊決戦における混乱を避けるため」、18日以降の「サイパン、ウルシー連結線以北、東経百四十五度以西の立ち入りを禁じた」と坂本元艦長の手記にある。

 

パラオ方面に近寄るなということだ。どうにも理解できないのだが、そもそもわが海軍は、潜水艦部隊が遠方で哨戒や奇襲をするのは当然の任務であるが、決戦海面に入り込むのは混乱(たとえば同士討ち)を招くだけだと考えていたらしい。

 

 

この立入禁止命令の翌日、立入禁止区域で「大鳳」「翔鶴」が敵潜の雷撃で沈んだときに司令部や中央はどう思ったのか、戦史叢書には一連の経緯も含め何も書かれていない。「奇襲」も「邀撃」もできず、当然ながら先遣部隊の実戦成果は無い。

 

橋本以行ほか著「潜水艦隊物語」にある「あ」号作戦の記載ぶりには無念が滲む。文中にあるギルバー作戦の反省点のうち、強調されているのは「散開線の移動が過敏に過ぎた」という点。戦前からの用法であり、時代遅れにもかかわらずガダルカナルでもマリアナ沖でも、改められることがなかった。該当部分は以下の通り。

 

この作戦で、第六艦隊は参加潜水艦三十六隻のうちニ十隻を失い、戦果は皆無という惨状を呈した。あ号作戦における潜水艦用法はギルバート作戦における反省が生かされず、従来の用法に終始した。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

奥多摩の山つつじ  (2024年4月20日撮影)

 

 

 

 

 

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