マリアナ沖海戦の連載も終盤を迎えているが、敗因分析等の総論に入る前に、各論の積み残しを一つ、取り上げることにした。潜水艦部隊。これまで潜水艦については、単発のトピック(単艦で米空母を沈めたというような)を拾い上げて来ただけだ。

 

マリアナ沖海戦では、新鋭の旗艦「大鳳」および歴戦の「翔鶴」の両空母を敵潜水艦に沈められた。それでは日本軍は潜水艦をどう使いこなしてきたのかという点を、避けて通る訳にはいかない。

 

 

巨大な金属が水に潜って沈まずに働くというのは、なんぼ物理法則に則っていると言われても、その仕組みを極めようという気には、他の兵器に増して到底なれない。勉強不足の恥を棚に上げて、予備知識ほとんど皆無のまま潜水艦の戦争を語る。

 

少し遡ってギルバート諸島における話題から始める。南雲機動艦隊が本土に帰還し、機動部隊なき日本軍が南西方面で苦闘していたとき、連合軍は中部太平洋方面にも進出してきた。マキンとタラワの戦い。昭和十八年(1943年)11月。

 

 

「戦史叢書第062巻 中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降」によると、日本海軍はガダルカナルの戦いが始まる前、主に潜水艦部隊を印度洋および豪北の両方面における通商破壊作戦に従事させていた。

 

しかし南西方面に火が付き、連合艦隊は潜水艦部隊(当時の主力は第一潜水戦隊)をソロモン方面に集中させた。主な任務は兵員・物資の輸送であり、モグラ輸送と呼ばれた。制空権を失ってからは、例えば安達陸軍司令官のような要人の移送も担った。

 

 

 

そこにギルバートの戦いが起き、いわば海上兵力の空白地帯だっただけに、海軍は潜水艦部隊を呼び寄せて集中投入している。今回以降、上記戦史叢書と同時並行で、雑誌「丸」別冊「玉砕の島々」の手記も読む。

 

同手記は坂本金美氏著「中部太平洋における潜水艦作戦」。著者は「当時呂四一潜水艦長・海軍少佐」。呂四一潜はマキン・タラワの陥落直後に竣工しており、著者はその初代艦長。

 

 

当時の中部太平洋方面の潜水艦部隊は、在トラック基地の第六艦隊。司令官は高木武雄中将(サイパンの戦いで戦死)、旗艦は巡洋艦「香取」。第六艦隊はトラック在泊中の四隻および行動中の五隻を併せ、計九隻をギルバートに向かわせた。

 

戦果は伊一七五潜が米護衛空母リスカム・ベイを轟沈したが、損耗はそれに釣り合わず九隻中六隻が未帰還となった。もともと兵力不足の上に、「敵情に応じてひんぱんに散開線の移動を命じた。まるで図上演習のような作戦指導であった」。

 

 

著者はそれに加えて、司令部が認識不足だった点として、当時ソロモンで呂一〇〇潜の艦長を務めていた経験から、日米のレーダーの性能の格差を挙げている。夜間浮上して充電すると攻撃を受けるようになっていた。「息継ぎ」が危険になっている。

 

先遣部隊という名称は、「連合艦隊兵力部署による第六戦隊の呼称」。先遣という軍事用語は、辞書的には前衛や先鋒の類語だそうだが、実際には前衛部隊よりも、はるかに先(敵側)に配置される。この点、上空の飛行隊と、海中の潜水隊は似ている。

 

 

ラバウル方面には、小型潜水艦が配備されていたが、明けて昭和十九年(1944年)2月のトラック大空襲により、連合艦隊はラバウル航空隊と同様、ラバウルの小型潜水艦をトラック方面に集中させ、「ラバウルはこれで完全に孤立することになった」。

 

この空襲で旗艦「香取」が、2月17日にトラック出航後、敵襲で沈没した件は、遠い昔に触れた。著者の呂四一潜が、トラックに進出したのは同3月14日。さっそく、マーシャルの戦いで多忙を極めるが、入れ違いのようにトラックを去った連合艦隊の主力は、その司令部が同月末、海軍乙事件を起こす。「あ」号作戦の検討が始まった。

 

 

(つづく)

 

 

 

シャガの群生  (2024年4月20日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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