これはアオサギ

 

 

ここで何気なく使っている「作戦」という言葉について、防衛庁・自衛隊のサイトに次のような説明がある。

https://www.mod.go.jp/msdf/navcol/assets/pdf/column207_01.pdf

 

 

1.広義には、軍隊(自衛隊)が与えられた任務達成のために遂行するあらゆる軍事行動(防衛行動)をいう。 

2.狭義には、ある目的を達成するまでの一連の戦闘行動をいい、捜索、攻撃、防御、移動、機動等及びこれに必要な後方活動を含む。

 

 

広義の作戦は日常用語にもなっており、スポーツのチームでも使うし、古いが「スパイ大作戦」でも「プロポーズ大作戦」でも通用する。狭義はいかにも軍事そのもの。わが大本営の作戦課は、最後の「必要な後方活動」につき、いたって関心が薄かった。次にこの文章の続きにアメリカ軍の用例が載っている。

 

米軍では、戦いのレベル(Levels of Warfare)を、戦略、作戦、戦術に分け、これらを「国家の目的と戦術行動の間の関係のモデル」として位置づける。 このうち、作戦レベルは、「軍隊の戦術的用法を国家の目的に関連付ける」中間 のレベルと定義している。

 

 

昭和十八年(1943年)9月30日、大日本帝国は「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」を閣議決定し、国家の目的として概ね「帝国ハ今明年内ニ戦局ノ大勢ヲ決スル」という方針を立てた。この時の国家方針は、外交分野でも二つあり、対ソ関係の好転、大東亜共栄圏の結束の強化。

 

戦局の大勢を決するための軍事戦略として、絶対防衛圏と呼ばれた圏域を定め、その圏内の「海上交通を確保す」という戦略を掲げて、これを達成するための海軍の一連の戦闘行為を「あ」号作戦と名付けた。アウトレンジ戦法は、その戦術行動の代表格である。とりあえず、こういう理解でもひどい間違いではあるまい。

 

 

今回で淵田美津雄・奥宮正武共著「機動部隊」の参照を一応おわる。本書は実質マリアナ沖海戦で打ち切っており、レイテ沖は最終章の「機動部隊のその後」に含まれている。奥宮が第一線を離れたこともあり、残りは教科書的な経緯の既述に留まる。

 

戦闘経過の概略も今回記事が最後になる。空戦二日目の6月20日の午後遅く、戦史叢書には記載が無いが、連合艦隊司令部からの指導があり、甲乙丙の空母三部隊は、それそれ一隻の母艦に艦載機を集中することになった。カラになった「隼鷹」ほかの空母は戦場から離れ、城島少将がギマラスまで率いて戻ることになった。

 

 

この艦載機の移動中に、ミッチャーの敵攻撃隊が急襲してきた。「隼鷹」の艦橋の上には、煙突の周囲に設けられた見張所(奥宮参謀はそこにいた)、更にその上に戦闘指揮所があり、「隼鷹」の渋谷清見艦長がそこにいる。

 

敵攻撃隊は高度を下げず、急降下爆撃で狙ってきた。9機ずつ二手に分かれてくる。わずかに左のほうが早いと判断した艦長は「面舵一杯」と叫び、退避行動に入ろうとしたが、すでに始まった高角砲と敵機銃の交戦にかき消され、その声が艦橋の大林司令官に届かない。

 

 

奥宮参謀が連絡役となり、階段を駆け下りて艦橋に飛び込み、航海長に「面舵一杯」と告げた途端、爆撃が始まった。「隼鷹」は煙突附近に直撃弾二発を受け、至近弾で大きな水柱が立った。

 

床に突っ伏した彼が頭を上げたとき、立っていたのは大林司令官だけだった。他は全て死傷者ばかり。さっきまで立っていた見張所は、さらに無残で見張り員が折り重なって倒れている。その有様は転記しない。

 

 

爆撃機はそのまま「隼鷹」の上空を過ぎ、左右の後方にいた「飛鷹」と「龍鳳」を襲った。「隼鷹」には後続の雷撃機が襲来したが、右前方を走っていた「長門」の主砲四十糎が火を噴き、先頭の二機を瞬時に吹っ飛ばした。

 

動かなくなった「飛鷹」の救助にゆく。大きく傾いた飛行甲板に目だった損傷がなかったことから、著者は水面下に魚雷が命中したのではと思った。なお、戦史叢書は米軍戦史(モリソン書)に雷撃の記録がないことから、銃爆撃および誘爆で大火災を起こしたと推察している。

 

 

これもアオサギ。

 

 

佐藤和正著「艦長たちの太平洋戦争」に、「隼鷹」の艦長だった渋谷清見元少将の証言記録がある。渋谷艦長はこの日、司令官らが立つ艦橋の上にある戦闘艦橋にいた。後続の「飛鷹」に爆弾と魚雷一本が命中し、運転不能となったと語っている。

 

彼によると、大林司令官が「長門」に「飛鷹」の曳航を命じたが、着手前に大火災が発生して曳航は不可能となった。「隼鷹」は至近弾に襲われ、飛行甲板が舷側からの破片でささくれ立ってしまい、艦載機の離発着が出来なくなったと語っている。上記「隼鷹」への離脱命令は、これが一因か。

 

 

さて、それまで被弾も被雷もしたことがなかった「瑞鶴」も直撃弾一、至近弾六。格納庫に火災が発生したが、消火に成功し大事に至らず。小沢司令部から、乙部隊に「北西方に退避せよ」との発行信号が送られ、「飛鷹」の救助は不可能と判断し乙部隊も変針した。

 

戦闘開始前に発艦していた航空機が戻ってきたが、一部が「龍鳳」にかろうじて着艦したのみで、大半は水煙をあげて不時着水している。搭乗員は駆逐艦が救助活動にあたったが、航空機は失われた。他部隊も同様である。

 

 

主力の小沢艦隊および前衛の栗田艦隊が、それぞれ夜襲を断念し退避したのは二十一時を越えてからのことだったが、その前に聯合艦隊司令部は既に決戦能力を失ったと判断し、一九四五、機動部隊は当面の戦況に応じて適宜、離脱せよとの電文が送られたのは既述のとおり。

 

6月22日から23日にかけて、機動部隊主力は沖縄島の南岸にある中城湾に入泊し、「ここに多難であった小澤部隊の作戦は集結したのであった。『あ号作戦』もまた遂に成らなかったのであった」。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

紅白のハナモモ  (2024年4月2日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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