マリアナ沖海戦は、昭和十九年(1944年)の6月19日と20日の足掛け二日で交戦が終わる。空戦の一日目は米軍が日本軍を見つけ得ず、日本軍が米軍を攻撃した。二日目はその逆になった。

 

前回の続きで、初日戦闘後の第一機動艦隊は、戦果も損害も把握できていなかったと戦史叢書は書いている。それでも日本軍は、未帰還の航空機の中には基地に着陸したものもありとの期待を抱きつつ、翌20日も積極的に索敵を開始した。

 

 

しかし敵か味方か分からない報告が乱れ飛び、敵もまた然りで午前中、両機動部隊は確たる動きをしていない。日本軍は宇垣中将の指摘通り、給油に時間がかかったらしい。同様のことが「完本・太平洋戦争(上)」の千早正隆著「戦果ゼロ・マリアナ沖海戦」にも書かれている。

 

小沢長官は依然としてその日に補給を行い攻撃を再興する決心を変えなかった。そしてタンカーとの合図に思いもかけない困難にぶつかっているうちに、両軍の距離は刻々と縮まっていった。

 

 

追撃の索敵機を放ったのは、スプルーアンス大将の艦隊において機動部隊を率いる海軍中将マーク・ミッチャー。午後2時40分、日本軍発見の第一報がミッチャーに届いた。これでもう米軍はアウトレンジではなくなった。ドーリットル空襲のとき、彼は陸軍機を飛ばした空母「ホーネット」の艦長だった。無茶をする。

 

両軍の距離はまだ275浬ある。これは米空母が進出し得る最大級の距離にあるばかりでなく、時間帯からして攻撃隊の帰還は夜間になる。18分日の小沢長官と似たような立場になった。それでも米軍は決断した。日没二時間半前の午後3時半、216機が発艦した。

 

 

この米攻撃隊が小沢部隊の上空に現れたのは日没20分前のことで、この20分間に米攻撃隊と日本側の防御砲火の激しいやり取りがあった。日本側の損失は空母「飛鷹」および輸送船二隻が沈没。

 

米軍の損失も前日をはるかに上回り、戦闘で20機、夜間の着艦で故障あるいは不時着したものが80機に及んだ。日本軍はこのあと夜襲を試みたが敵発見に至る前に、連合艦隊司令長官の退避命令が出た。米軍は更に追撃したが、こちらも21日には断念している。

 

 

戦史叢書(12)より補足すると、小沢部隊が敵機襲来を確認したのは、21日午後3時過ぎであるらしい。第一機動艦隊戦闘詳報からの引用がある。午後になり相次いで敵味方不明の飛行機発見の電あり。その続きを現代仮名遣いで引用する。

 

一五一五、「愛宕」より敵電波を感受せる報せ、並びに敵飛行艇、当艦隊に接触せること判明せるをもって、補給に執着することなく三二〇度に急速退避に決せり。一五二〇、第一第二補給部隊に対し、速やかに西方に退避せしむ。

 

 

ツグミ

 

 

他方、小沢部隊は追撃し来る敵艦隊に対する薄暮雷撃を企図し、一七二五、雷撃隊を後方に発進させるとともに、第二艦隊(長、栗田中将)を主力とする遊撃部隊を転針させ、雷撃隊と呼応すべく東進を命じた。

 

この雷撃隊が各空母から発進した直後に米航航空部隊が来襲し、上空にある待機組がただちに邀撃、空中戦を開始した。戦果は対空砲火を含め約九十機撃墜となっているが、米軍の記録は先述のように20機の損失。

 

 

改造母艦「飛鷹」の最期は記録によって細部が異なるが、戦史叢書では、まず敵機からの魚雷一本が命中し運転不能となり、漂流中に敵船の雷撃で更に一本命中。「艦内大火災となり一九三二、ついに沈没す」。

 

ほかに「瑞鶴」「隼鷹」「千代田」「榛名」「摩耶」が損傷を受けたが、航海に支障なし。補給部隊では「玄洋丸」が至近弾により機関大破、「清洋丸」が被爆火災を起こし、いずれも味方駆逐艦の雷撃により処分された(以下引用の電報は原文カタカナ)。

 

 

雷撃隊は敵を見ず、機動部隊の航空兵力が明朝の航空支援も不可能な状況にあることも判明した。二〇〇〇、小沢司令長官は栗田長官に「夜戦の見込みなければ速やかに北西方に退避せよ」と下令し、野戦を断念するに至った。

 

内地の連合艦隊司令部も、小沢部隊に対し、当面の戦況に応じて機宜、離脱するよう発電し、さらに「追撃戦は一応延期、戦況に応じ再興の予定」、「機動部隊の全般的状況、承知したく」と続けた。二一二五、小沢司令部より返事が来た。「明朝前衛に協力すべき機動部隊航空兵力ほとんど消耗せり」。力負けであった。

 

 

(つづく)

 

 

 

ユキヤナギの季節  (2024年4月2日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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