今回の参考文献は宇垣纒「戦藻録」。同書は彼が所属する前衛部隊が、味方の第一次攻撃隊を誤射したところまで読んだ。その続き。なお、今回は何か所かに「後刻判明せる」という表現が出てきており、敗戦後に記したためだろう、憂色が濃い。

 

第一次攻撃隊を見送った後、「戦爆の効果如何を待ちしも仲々戦果来らず」。かれら前衛部隊は、飛行隊が敵空母に打撃を与え攻撃力を減殺したあとが出番である。しかし後刻判明したところによると、敵は約二十浬に戦闘機を配し、日本軍の攻撃隊を阻止した。

 

 

さらに、「大攻撃隊と覚しき本隊の第二次攻撃隊の如き敵を見ず引返すの電あり。何たる遺憾ぞ」となった。この間、彼の前衛は敵との距離を三百浬以上に保ちつつ艦隊運動を保ちながら水偵艦上機の収容にあたっていた。

 

一四〇〇、駆逐艦部隊の第十戦隊旗艦「矢矧」は、「翔鶴沈没す。我人員救出中」との秘伝を発し、次に一六〇〇ごろ「羽黒」から、「吾大鳳の通信を代行す」と来た。旗艦も同じ運命をたどったか、「何たる不運ぞ」と嘆いている。

 

 

 

この要図は「戦藻録」の「第三章 マリアナ海戦」(沖の字が無いな)から拝借したもの。太字が日本軍の主力で、タウイタウイ発、ルソン島沖から東進した。宇垣中将の「渾部隊」は濠北から北上して合流。帰路はいずれも沖縄に向かっている。

 

「翔鶴」が沈んだ19日16時の位置は、ルソンとグアムの真ん中やや東にある。ここに敵軍は潜水艦網を敷いた。宇垣司令官の観察では、敵潜の雷撃はわが「飛行機の収容時に応じた」もので、「巧妙至極と云ふべし」。

 

 

この続きに我が飛行隊が、グアム上空およびロタ上空で大きな損害を受けた件が載っている。自分たちが遊撃部隊となり進撃の機会を伺っていたものの、これでは「遊撃どころか敵に損害を与えず。我のみ大なる損害となれること明かなり。天なほ我に与せざるか」という事態に陥ってしまった。

 

 

甲乙部隊はいったん退いて北進し、前衛も補給のため北西に進んだため、「夕方、瑞鶴の孤影悄然、甲部隊を代表して近接するを見る」。ちなみにガス漏れの「大鳳」が帰還機の着艦停止を解かざるを得なかったのは、「翔鶴」なきあと「瑞鶴」だけでは収容しきれなくなったからだった。

 

 

夜が明けて6月20日、各部隊は補給を開始。互いに近接し過ぎて給油時に混乱が生じたらしく、「若き者は注意せよ」と教訓を残した。そして一〇四四、哨戒機が近距離に「空母を含む敵部隊見ゆ」の緊急電を打って来た。

 

ところが、この時間帯、司令部は旗艦を「羽黒」から「瑞鶴」に移す変更作業の最中だったようで、この事態に「無頓着」だったらしい。緊急の処置をとらなかった。前衛部隊は北西に退いたが、乙部隊は「前方に在りて行動緩慢、補給部隊は後方に取り残されて何事かも分からざるが如し」。

 

 

午後になると敵の索敵機が機数を増した。「大和の電探も仲々よく働き」、90キロ付近で感度きわめて大となった。互いに砲火を開き、日が暮れたのち雷撃隊の夜襲をかけたが、「我敵を見ず引返す」となって夜襲は不発。

 

このときの敵襲で「飛鷹」が沈んだ。第一機動部隊司令部からは、「夜戦望み無ければ引返せ」の命があった。翌21日、本隊は沖縄の中城湾へ、輸送部隊はギマラスへ向かえとの指令が届く。小康を得て、「迫撃の夢さめはてて梅雨の空」と詠んだ。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

春になると鳥の写真が減り、花の写真が増えます。 (2024年4月2日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

.