かつて本ブログは伯父が出征したマリアナから始まり、次に同じ故郷静岡の郷土部隊である歩兵第二三〇聯隊が塗炭の苦しみを舐めたガダルカナルに移った。比べて真珠湾やミッドウェーには、それほど詳しく触れていない。

 

このため、ミッドウェー海戦で失われた四隻の航空母艦よりも、南東方面の「翔鶴」と「瑞鶴」のほうが、登場回数が多いし愛着もある。その「翔鶴」はマリアナ沖で、「大鳳」に続き敵潜の雷撃を受け、「大鳳」よりも早く沈んだ。

 

 

以前も参照した司馬遼太郎「街道をゆく」第43巻の「三浦半島記」に、著者が日本海海戦を描くため、海軍関係の有識者をあつめて勉強会のようなものを開催したとのくだりがある。一部を転載する。

 

この一座で、他のひとたちとすこし毛色の変わった人が、福井静夫氏だった。福井さんは東大工学部の在学中に海軍委託学生になった人で、終戦のとき技術少佐だった。世界的に知名な艦船史家で、私もその著者の恩恵に浴していた。

 

座談のなかばで、私は福井さんを、敬愛をこめてからかってみた。福井さんは戦後二十六年もたつのに、海軍に居っぱなし(研究をされているということで)とはどういうことでしょうと、いった。福井さんは溶けるような笑顔で応じられた。「昭和十四(一九三九)年までに海軍を見てしまった者にとっては、終生のものなんです」。

 

 

司馬はこの続きにおいて、当時の海軍は「大正デモクラシー名残があった」場の一つと書いている。そのとおりであったとしても、「昭和十四年までに」という区切りの明確さは、それだけでは説明できない。何があったのか。

 

昭和十四年は第二次世界大戦が始まり、ノモンハン事件が起きた。翌十五年は対英米開戦反対の米内内閣が総辞職し、第二次近衛内閣が発足、初入閣の東條英機が陸軍大臣となり、日独伊三国同盟が締結された。

 

 

 

この昭和十四年に「翔鶴」と「瑞鶴」が進水している。それでは私もその著作の恩恵に浴することにして、福井静夫著作集「日本空母物語」を参照する。収録書作の中に「空母”翔鶴”の思い出」がある。福井さんが見てしまった海軍の回想記。

 

機密保持のため設計段階から進水まで大変な苦労をすることになった「大和」や「武蔵」と異なり、この年の6月1日の夕方、横須賀工廠で行われた「翔鶴」の「進水命名式はきわめて盛大に行われ、巨万の拝観者が招待された」。

 

 

格別の思い出になるのも当然のことで、著者はこの進水式の四日前に、横須賀工廠造船部の副部員になったばかりだった。フクフク(福副)というあだ名がついた。階級は先述のとおり造船中尉。

 

夕方を選んだのは満潮時だったからだが、一天俄に掻き曇り「スコール」が降って、最良の軍服を着ていた諸官や美装した人たちにとり、「この上ない残酷な進水式」となった。福井中尉の婚約者もその一人で、「このときの恐慌は今も記憶に残る」。

 

 

造船部長から三名の造船中尉に対し、「気の毒だが君たちはまだ幾らも機会があるから」ということで、進水直前にキールの下にもぐって最終検査を行う役目を仰せつかってしまった。福井さんは進水のために安全ピンを抜く船台の最終確認をした。

 

「翔鶴」は無事、彼の上を滑ってゆき進水して浮揚した。その夜は公式の宴のあと、造船部で祝賀会が行われ、平素まことにこわい進水主任の西村造船中佐が、「これで俺も大佐になれる」と若年士官にキスして回った。「よき時代の最もよき日の思い出である」。

 

 

さて。下手なくせに、しばしば将棋を引き合いに出す。プロが素人相手に指すとき、駒落ちというハンディキャップが用いられる。よく聞くのは飛車角落ちだが、金銀落ちというのは余り聞かない。

 

飛車角のない将棋はプロにとっても良い練習になるのだろうが、金銀なしでは将棋にならんからだろうと思っている。攻撃にも守備にも、そして将棋にはないが輸送にも大活躍だった駆逐艦は、金銀の駒と役目がよく似ている。

 

 

千早正隆は、4隻配置された米潜水艦に「大鳳」と「翔鶴」が続けて沈められたのは、日本海軍が「三隻の大型空母に対して七隻の護衛の潜水艦しかつけられなかった」からだと「聯合艦隊興亡記」に書いている。一部を引用する。

 

翔鶴を仕留めたアメリカ潜水艦の艦長がいうところによれば「日本側は全然気が付いていなかった。潜望鏡を露出すること四回、千メートルまで近づいて魚雷を六本発射した」とのことであった。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

今年はよく見かけたジョウビタキ♂  (2024年3月1日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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