この冬、近所に積もった唯一の雪
先日ガダルカナルからポートモレスビー経由で帰国するにあたり、トランジットでシンガポールに一泊した。本ブログで何度かその名に触れたセレターという飛行場が、このチャンギ空港の前身だろうかと思ったが、調べると間違い。
チャンギは民間用、セレターは軍用として今も併存している。マリアナ沖海戦当時、大本営の参謀だった源田実が、入江俊家を最後に見たのが、この昭南島のセレター航空基地だった。
第一航空艦隊の創設に関わった源田の著書「海軍航空隊始末記」によると、この艦隊については、「配員に関しても細心の配慮が払われた。例えば主力をなす第六〇一空の司令には、海軍の至宝、入江俊家中佐を配する等である」。
マリアナ沖海戦の二ヶ月ほど前、昭和十九年(1944年)4月中旬に、源田参謀は伊藤整一軍令部次長とともに、南方に出張した際、久しぶりの母艦勤務に励んでいる入江司令をセレターで観た。「齢既に四十を超えていたにもかかわらず、若いものと同様にどしどし着艦などやってのけていた」。
前回の話題で「飛行機乗りにしては珍しくおとなしい」と奥宮正武に評されている垂井明の上官で、同日に戦死した入江俊家はどんな人だったのか。戸川幸夫著「悲しき太平洋」に「入江俊家司令 大鳳と死す」という短編がある。
戸川幸夫は子供の頃から知っている。動物文学、児童文学の作家だが、なぜか軍隊に関連する著作もある。不思議に思っていたところ、本書のあとがきに海軍報道班員として二度、従軍した経験があると書いてあった。
司令になる直前まで、入江は海軍兵学校の教官兼監事を務めていた。かつての上官によると、通常この職は健康に問題があり静養が必要な者が就くが、「彼のような第一級のばりばりの飛行機乗り」がなるのは前代未聞。戦況はそれほどまでに逼迫し、搭乗員の育成が急務だった。
しかし一年半足らずで、前線に引っ張り出された。「あ」号作戦では最新鋭の航空機と訓練途上の搭乗員を擁する連合艦隊が、優れた指揮者やベテランの搭乗員を現場に必要としていた。シンガポールに赴任したのが、この年の2月。
東京インコ
前任者の田中次郎中佐に戸川が取材したところによると、入佐は訓練の計画書をろくに読みもせぬうちに、「貴様の計画どおりに俺はやるよ」と言った。相変わらずだった。入佐は不言実行の男で、攻撃隊を率いて出動するときも、分隊長が行うはずの敵情説明や戦術の指示などはしない。
彼は出発時刻のぎりぎりまで戦闘指揮所の椅子に腰をかけている。そして、時間が来ると、「おい、ゆくぞ」。たった一言、隊員に投げつけると、さっさと飛行機の方にゆく。
戦果の報告もぶっきらぼうで、自慢話も詳細説明もなく、事実関係のみ数字で示して終わり。戸川は幾つかの証言を挙げて、この不愛想で自己顕示欲のない人物を「あまりに目立たない控えめな人物」と評している。
海軍で個人に感状が与えられることは、きわめて稀であったらしい。入佐はその個人感状を三回授与されている。三回目は受け取る本人がもうこの世にいなかったが。上記の田中中佐がこう語っている。
霞ヶ浦を出た飛行学生は陸上で一年くらい訓練を受けてからでないと母艦には乗せられなかった。それが入佐と源田だけは、卒業の年に乗組みを許されたほどだ。
航空母艦「大鳳」の初代艦長、菊池朝三海軍大佐(当時)は、戸川幸夫が取材したとき土浦市の市議会議員になっていた。彼は爆発した「大鳳」から司令部や部下を駆逐艦「磯風」に移乗させた後、甲板の鉄板にハンモックの紐で自身の体を巻き付けた。
海中でその紐が切れたらしく、「お羞しいことですが」、沈没後に仮死状態で浮かんでいるところを救助された。彼の腕時計は「大鳳」沈没時の午後四時二十八分で止まっている。
「大鳳」が雷撃を受けたのは〇八三〇。その直後から、入江司令は飛行甲板に空いた大穴を埋めるため、補修工事の監督にあたったらしい。ようやく応急措置が終わり、後部の昇降機の無事も確認できたが、垂井隊からの連絡がなく、さらにガス漏れが始まっていた。
元艦長によると、午前10時ごろには艦内にガスが充満しており、司令長官に意見して換気のため窓や扉を開けさせた。鋲のある靴を履いている者には、そっと歩くように命じた。最初のうち、「大鳳」は着艦不可という命令を航空機に出していた。
次々と「我、海上に不時着す。申し訳なし」と落ちてゆく。司令部も見かねたか、「大鳳に着艦を許可せよ」という長官命令が出た。すぐ着艦命令を出せと入江司令が怒鳴り、舞い降りて来た一番機の車輪が甲板に着いた途端に大爆発が起こった。
ちなみに、艦長は爆発のとき戦闘指揮所にいたと書いているので、その着艦の瞬間を見てはいないのではないかと思うのだが、生き残った乗組員の共通認識がこうでなければ明言はできまい。「鋲のある靴」でさえ心配だったのだ。
このとき入江司令は甲板上にあったという目撃証言がある。菊池元艦長によると、「入江君は駆逐艦がずいぶんと捜しましたが、屍はおろか一片の肉片すらも発見できませんでした」と回顧している。
後にこのことを知った菊池艦長は、旅順の広瀬のようだと思ったそうだ。私は私で、うちの伯父も存外この薩摩隼人の近くで眠っているかもしれないなどと、詮無いことを考えている。
(おわり)
梅にメジロ (2024年3月30日撮影)
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