一木支隊の碑は二つあった。

 

 

前掲の淵田・奥宮共著書「機動部隊」よると、昭和十九年(1944年)6月19日の日出前より、第一機動艦隊の索敵が始まった。その第一波と第二派は前衛部隊の栗田艦隊から、そして第三派は主力の小沢艦隊から発進している。

 

奥宮参謀によると、この時に至っても角田部隊からは何の連絡もない。本来、索敵機は第一航空艦隊からも出すはずだったが、音沙汰無しとあって(戦史叢書によると、索敵の実績は僅かにある)、小沢部隊は攻撃用の艦上機24機も索敵に出さざるを得なかった。「ミッドウェー海戦の貴重な教訓」により堅陣な索敵網を敷いている。

 

 

本書によると奥宮参謀の乙部隊は、索敵機収容のため「大鳳」ら甲部隊から距離を置いて索敵任務を負わず、後の第一次攻撃も時間を措いて参加した。陸軍部隊でいう「予備」のような位置付けだろうか。「隼鷹」艦橋の最上部に設置された電波探知機が回転し続け、索敵情報を収集する。

 

日出後、一時間が経過したころ、待望の第一報が七番索敵機から来た。前出の敵三群のうち、最初に空母の存在が確認されたこの敵艦隊「七イ」は、索敵機の番号七から名付けられた。七番と同じく索敵線中央を飛ぶ九番機からも、空母発見の報告あり。

 

 

以前、第一次攻撃隊の発進が、なぜ主力の甲部隊よりも、前衛の丙部隊の方が早かったのだろうと書いたが、おそらく敵に近かったからだろう。前衛から七イまで「約三〇〇浬(東京岡山間)」、主力の甲乙部隊からは三八〇浬ある。奥宮参謀は「遠すぎる」と懸念した。それに相手も動く。

 

相手が動かなかった真珠湾攻撃で淵田隊が飛んだ距離は二三〇浬。しかも今回は訓練不足の懸念がある。しかし「既定の攻撃計画」があり、それに基づいて前衛の栗田中将は、乙部隊の大林司令官に攻撃命令を下した。

 

これは「鎮魂碑」

 

 

大林少将は、午前七時二十分に接触機として九七式艦上攻撃機二機を、七時三十分には中本大尉の指揮する攻撃隊に、中川大尉の援護戦闘機を附して発進せしめた。

 

これに続き小沢艦隊の甲部隊からも、午前八時、第一次攻撃隊として垂井隊百二十八

機が発進している。「隼鷹」から「大鳳」をみると、甲板にはすでに第二次攻撃隊らしき艦上機が並んでいる。そのとき旗艦から探照灯と旗旈を併用し、乙部隊の城島司令官に対し、「速に攻撃隊を発進せよ」と下令してきた。

 

 

これを受けて乙部隊の城島少将は、まず前路索敵機二機を「七イ」に向けて発進させた。自軍のレーダーが「敵味方不明の飛行機の近接」を報じて来た。これが上空に来てしまっては遅い。〇八三〇、甲板に艦上機を順序良く並べて待機していた城島部隊も第一次攻撃隊を発進させた。しかしこの「敵味方不明」が、垂井隊だったのだ。

 

南寄りの策敵線から、敵軍「十五リ」の発見報告が届いたのは、このすぐ後の午前8時45分。その次の「三リ」は北寄りから、午前9時に報告があった。つまり第一次攻撃隊は、当初すべて「七イ」のみへの集中攻撃を企図していた。

 

 

次回の話題とするが、この命令は機動中に一部変更された。最終的には18日に発見した敵三群すべてを目指している。ではその敵の陣営は、いかなる規模・内容だったのか。日米の記録で、米空母の数は一致している。15隻だった。

 

戦史叢書(12)によると、日本側はサイパンの南雲部隊(中部太平洋艦隊)において、本格的マリアナ空襲の初日6月11日に、撃墜した搭乗員が所持していた呼出符号および尋問により、米空母が十五隻であると判明。

 

 

同日夜には大本営・聯合艦隊司令部に発電した。艦名も載っている。一覧表のうち(正)が正規空母、(軽)が軽空母。全15隻であったことは、その下に貼った米海軍資料にも出て来る。マーク・ミッチャー海軍中将指揮のタスク・フォース、"TF58"。

 

第1群: エセックス(正)、カウペンス(軽)、ラングレイ(軽)

第2群: エンタープライズ(正)、レキシントン(正)、

     サンジャシント(軽)、プリンストン(軽)

第3群: バンカーヒル(正)、ワスプ(正)、

     モンテレー(軽)、キヤボット(軽)

第4群: ホーネット(正)、ヨークタウン(正)

     ベローウッド(軽)、バタン(軽)

 

 

日本軍の攻撃隊は、「三リ」および「十五リ」も指向したものの、いずれも「敵を見ず」に終わった。したがって、この海戦で日本の襲撃を受け、至近弾の被害に遭った空母は、米軍資料に「バンカーヒル」と「ワスプ」の名があることから、「七イ」とは上記の第3群だろう。それにしても七面鳥撃ちとは小癪である。

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

もう一つは「奮戦之地」の石塔  (2024年3月19日撮影)