今回で「丸」別冊の手記、林勇氏著「旗艦『大鳳』の最期」とお別れする。艦上で何等かの尋常ならざる災難に巻き込まれた著者(海軍整備兵長)は、われに返って周囲を見渡したが知った顔がない。どこかで人員点呼をしているのではと思い焦った。

 

そのとき甲板士官が歩きながら怒鳴っている声が聞こえて来た。「総員退却命令が出ているんだ。泳げる者は泳げ!」。中には動転して左舷側で二十五ミリの機銃を撃ちまくっている者もいる艦上で、著者はまず頭の中を整理したらしい。

 

 

そうだ、今までいろいろな訓練を重ねてきたが、こういう場合を想定した訓練をしなかったんだ。どこにも人員点呼なんかしていないんだ。退避命令が出ているとすれば、「大鳳」は助からない。沈没するということを前提に出された命令なんだ。

 

能登半島の震災後の支援活動が、現場関係者の懸命の努力にもかかわらず、うまく進んでいないとの報道である。私が経験してきた避難訓練は想定内そのもので机の下にもぐるとか、非常階段から降りるとか、AEDの使い方とか。それはそれで発生確率からして大事だけれど、天変地異は想定外のことばかり起き、被害は長期化する。

 

 

林兵長は自問自答した。艦に残るとどうなるか。艦上には爆発物が無数にある。それらが誘爆したら命はない。仮にそうならなくとも、このままではいずれ艦と共に沈むだろう。実戦経験のある教官たちが言っていたのを思い出す。「艦が沈むときは、大きな渦が巻き、吸い込まれるから、絶対に艦の近くにいないことだ」。

 

どこで読んだか忘れたのでご参考まで、巨艦が沈むときは駆逐艦さえ巻き込まれるおそれがあり、否応なく、しばし距離を措いて待たなければならない由。著者は海に飛び込むことにした。飛行甲板、高射砲甲板、錨甲板と海面に向かって降りてゆく。

 

 

似たような考えで多くがそこに集まっていた。順番待ちではなくて、座り込んでいる者が多く、「心の準備ができあがった者からつぎつぎよ消えていく」。飛び込むか、ロープを伝わって降りる。著者は一刻も早く艦から遠ざかることを優先し、防毒マスクと短靴を置いて、海に飛び込んだ。

 

懸命に泳ぐが、作業服に脚絆巻きとあって速度が出ない。ようやく艦から300メートルほど離れたところまできて、「浮き」を捜し、丸太の端につかまることにした。丸太にそのまま抱きつくと、水面でくるくる回ってしまうらしい。

 

 

 

潮の加減か、彼は「大鳳」から遠い方へと流されてゆく。「母艦のほうを見ると、いっそう煙や炎が激しくなっている」。護衛艦は重巡洋艦「羽黒」、駆逐艦「磯風」「若月」。一隻の駆逐艦が旗艦に近づいてゆく。周辺の漂流者を救助している様子。

 

その駆逐艦が用事を終えて離れるのを待つかのように、「大鳳」は間もなく沈んだ。この日は不幸中の幸いで、波が穏やかであった。さもなくば、どうなっていたことか分からないと記している。水を求める声。母を呼ぶ声。

 

 

著者らは「磯風」が出したカッターに拾われた。「磯風」から午後遅くに始まった戦闘を見た。敵機が大型艦に集中攻撃をかけてくる。タウイタウイなどでは駆逐艦ばかり沈められていたのに、マリアナ沖海戦の損害は航空母艦三隻と油槽船のみ。戦艦、巡洋艦、駆逐艦は沈んでいない。意図してそうしたのなら、敵もさるもの。

 

著者の十分隊は、122名中77名(69%)が戦死した。中でも出撃直前に補充で配属された「一整たち」は84名中61名が戦死。「磯風」に救助された後に戦傷で命を落とした者もおり、沖縄に向かった22日、海上で水葬が行われた。

 

 

遺体は毛布にくるまれ、浮かび上がらないように訓練用の砲弾を重しにし、海底深くに葬った。そのあと「大鳳」の乗員は「瑞鶴」に集められ、分隊長ほか部隊の仲間と合流できた。嬉しかった。一方で顔の見えない者もある。

 

沖縄の山並みが見えたころ、一人「瑞鶴」の飛行甲板に立ち、怒りと悲しみにくれて泣いた。「『大鳳』と私たちの初陣を、大きな戦果で飾ろうと、それこそ喜び勇んで戦いにのぞんだ私たちだった」。しかし、戦さの神に見放された。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

フロリダ諸島の遠景  (2024年3月15日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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