ニワトリ。アウステン山そばの村落にて。

 

 

前回の続き。昭和十九年(1944年)6月19日、旗艦「大鳳」乗組の林整備兵長は、戦闘服のまま仮眠しただけで、午前3時過ぎに起こされた。あたりはまだ真っ暗だった。4時過ぎには同艦から索敵機が飛び発った。5時半ごろに夜が明けた。

 

曇天。空は低い雲に覆われており、肉眼でレーダーと戦う日本海軍には不利な天候。攻撃準備の号令が出て、格納庫から飛行甲板へ飛行機がどんどん揚げられ、爆弾や魚雷を搭載する。飛行隊の整備員が飛び乗り、エンジンの最終チェックをする。

 

 

6時半ごろ、敵艦隊発見の報告あり。第一攻撃隊に「搭乗員整列」の号令が出て、飛行長が訓示と作戦命令を伝えた。「大鳳」の飛行長は六〇一空の司令、入佐俊家中佐。この日の爆発事故で命を落とす。垂井飛行隊長以下、日の丸の鉢巻きを締めている。

 

7時半、先頭の零戦が発艦した。「艦戦が全部発艦し終わると、艦爆の彗星、艦攻の天山の順でエンジンを全開にして飛び発って行く」。司令部幕僚や艦長、飛行長、彼ら整備員もそろって一斉に帽振れで見送った。その直後のこと。

 

 

八時過ぎ、第一次攻撃隊を出撃させて、ほっとした瞬間、いま飛び立ったばかりの彗星か、それとも艦隊上空で対潜哨戒にあたっていた彗星か分からないが、「大鳳」右舷の海面に突っ込んだのが目に入る。

 

と同時に物すごい爆発音がして、右舷の艦橋の少し前で、高く飛びあがる水柱。母艦は大きく右に傾いた。速力もぐっと落ちてきた。一瞬、何が何だかわからなかった。しばらくして、魚雷を一本受けたことが知らされる。先ほどの彗星艦爆の異常な行動の意味が分かり、胸がきゅんと痛む。

 

 

 

 

艦では直ちに復旧作業が始まった。被害箇所の状況は分からなかったが、そこは工作分隊に任せ、彼が所属する十分隊は、飛行甲板の復旧作業を担当した。甲板自体に損傷はない。ところが運転中の昇降機が衝撃で停止してしまった。

 

このタイミングで運転していたということは、第二次攻撃隊の準備中だったのだろうか。だとしたら何という間の悪さ。「被雷のショックでエレベーターは途中で止まったまま動かなくなってしまった。このままでは、飛行甲板に大きな穴があいたも同様で飛行機の発着ができない」。

 

 

私は空母の昇降機を見たことがないので、以下のとおり想像している。おかしな点があったらご指摘いただけると幸いなり。私が載るエレベーターは例外なく箱型であり、天井と四方の壁に囲まれている、壁の一つが自動ドアになっている。

 

しかし航空母艦の昇降機は、機能こそ同様であっても形状は違うだろう。箱型では甲板に出た途端に邪魔物になってしまう。自動ドアも不要。となれば航空機を載せる床だけだ。蓋もないから、途中で止まると「大きな穴があいたも同様」になる。

 

 

これは歌舞伎で役者がせり上がってくる設備と似たもので、あれは業界用語で「セリ」という演出用のものらしい。世界一の装甲は、いわば硬い鎧をまとっているようなもので緩衝材になるものもなく、昇降機を振動が直撃したものか。ちなみに我がマンションのエレベーターは、東日本大震災の震度5強で一晩中、停まった。

 

とりあえず「大鳳」が困ったのは、大きな穴が甲板に空いたも同然となり、艦載機の発着ができなくなったことだ。前掲福井書に「大鳳」の初期計画時点での設計図が載っている。停止した前部昇降機は、艦首と煙突の中間あたりにある。

 

 

著者の十分隊の飛行甲板要員は総出で、応急措置を施した。木材を集め、昇降機の上に積み重ねて、甲板上にできた穴をふさぐことに成功した。一応、発着艦に支障がない程度まで塞いだころ、浸水を防ぐ応急措置も終わったらしい。艦内放送で、「本艦は作戦続行に支障がない」との報告があった。

 

著者はかつて、艤装中に川崎造船所の工員たちが言っていたことを思い出している。「この艦は、魚雷の十本やニ十本受けても、びくともしないですよ」。実際、速力も元に戻っている。10時過ぎには、第二次攻撃隊も発進した。箱型の密封式ではない昇降機は構造上、普段、換気にも役立つ。それを塞いだままになっていた。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

上手く撮れなかった。中央少し上に大きな蝶が葉にとまっている。

(2024年3月12日撮影)